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  3つのオレンジへの恋からのお知らせです  
新宿区戸塚町1-102-101(早稲田大学南門前、南門から徒歩0分)のオムライス店です。オムライスだけでなくブリュレもご好評いただいております。ランチタイム、ティータイムにご利用ください!
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2018/05/04(金)18:45
もはや私の記憶容量をはるかに上回る来訪と接客が続きますが、駆けつけて下さる一人ひとりが、「3つのオレンジへの恋」にとって大切なみなさんです。

早稲田大学応援部元チアリーダーで、私が「精華のひと」と名付けたAさん(旧姓)は2012年春の卒業。
高校生の時に、オープンキャンパスで早稲田大学チアリーダーの演技を見て感激、自らチアになる夢を抱いて見事に実現したのです。

卒業後、今度は医師を目指して某大学医学部で学んでおられたが、最近、晴れの白衣授与式が行われたとのことでした。
それが医学部生にとってとても神聖で重い意味をもつことは、医療の世界にはまったく疎い私にもうかがい知れます。

ときおり「3つのオレンジへの恋」に、チア在籍時と変わらない若々しいお顔を見せてくれ、昨年春にはよき伴侶と結ばれて、私たち夫婦も二次会に参列させていただいたばかり。

医学部に入ってからもう5年も経ったのか・・・。
間もなく若い女医先生の誕生です。
この日一緒にいらしたご両親同様、私も感無量です。

Aさんご本人が、4年生の「最後のチアステージ」パンフレットに書いていましたが、大勢のひとの前で、常に危険を伴う激しい動作演技を、笑顔で行う応援部「チア」をまっとうするには、並大抵の努力では務まりません。猛練習後、疲れ切って終電車を乗り越し、お母さんによる車の出迎えもたびたび・・・。

彼女が寄せた一文によって、チアの日々の活動が、厳しい鍛錬はもとより、チームワークと、さらに家族の愛にも支えられた、文字通り汗と涙の結晶であったことをあらためて知りました。

私が知る限り、パンフに「チアの4年間」のことを書かれた部員は、ほかの誰よりも「3つのオレンジへの恋」に真直ぐな思いを寄せてくれたこのAさんだけです。「チアの真実」を率直に認(したた)めてくれたAさんは、日頃、拙文に腐心している私にとっていっそう嬉しい存在になりました。

卒業式の日には、「3つのオレンジへの恋」に見えたAさん親子を、私は涙で見送ったものでした。


先日、ブログ(3月22日付 「護られていたんだ」)に書いたのですが、私が早稲田の学生時代に小田急線内で遭遇した、”高名な占いの先生“が、知らなかった自分のこと、とくに守護霊の存在を教えてくれたことがありました。Aさんが同じ沿線の、かつて私が利用していた駅の隣接地域に新居を構えたことも何かの縁、吉兆を暗示しているのだと思います。

私には特別な零能力はありませんが、彼女も、きっと強い力で護られているはずです。


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2018/04/20(金)19:20
小学生の頃、日曜夕方の「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)が楽しみでした。
歌もダンスも上手であったザ・ピーナッツ姉妹の可愛さと、クレイジーキャッツの“不良おじさん”どもとのからみが実に面白く、クラスのひょうきんな男子連中は、こぞってそのギャグや仕草を真似していたものだった。

番組の「定番」、娘役のピーナッツと病床のハナ肇の貧しい親子によるコントは、後のドリフターズに引き継がれた。
個性も才能も豊かだったクレイジーキャッツの面々、青島幸男も、若き小松政夫もなべおさみも登場し、多くのギャグやコント、流行語を生み出した。
ピーナッツのふたりがエンディングの「スターダスト」を物悲しく歌い始めると、最後にハナ肇が笑わせてくれても、もう終わってしまうのと、喪失感が湧いてくるのでした。


その前の日、土曜夜のバラエティー番組「夢であいましょう」(NHK)もそうでした。「ローハイド」(当時日本教育テレビ)とどちらを見ようかと、悩んだ時間帯でした。
「夢で━━」は初期の頃は生放送だったと言いますから驚きます。
オープニングの出演者紹介は、毎回毎回凝った嗜好が凝らされていて、こどもながらに感心していました。

ミスユニバース(優勝)だった“元祖美しいお姉さん”中嶋弘子さんの上品なトーク、今に至るまで賑やかな黒柳徹子さん、まだ売り出し中だった渥美清さんのおかしさは、このときが最高だったと今でもおもっています。
”変な外人“E・H・エリックさんと”ドンファン”岡田真澄さんの兄弟、いかにも下町っぽい谷幹一さん、怪しげなフランス語で煙に巻く藤村有弘さん・・・レギュラー・準レギュラー・ゲスト出演者たちの芸達者ぶりは愉快でした。
そして永六輔さん・中村八大さんによる「今月の歌」から生まれた珠玉の名曲の数々・・・一体一つの番組からこれほど名曲が連発されたことがあったでしょうか。

始まるときはうれしくて楽しいのに、こちらもエンディング曲の「夢であいましょう」が聞こえてくると・・・出演した多くの歌手やコーラスグループが歌ったのですが・・・極めつけはやはり坂本スミ子さん。
曲につれて最後にカメラが遠ざかってゆくと、そこはかとなく切なくなるのです・・・楽しかった宴の後・・・。


「3つのオレンジへの恋」はいよいよエンディングを迎えます。
満16年が過ぎて17年目に入ったところ、「一回限り」の夢のようなロングランでした。
間もなくフィナーレが始まります。
みなさん早めにお席にお戻りください。

2018/04/10(火)19:06
(急告)
4月19日(木)は都合によりお休みさせていただきますのでご了承ください。


(ブログ 本文)

FM放送の「スぺクタル・大作映画音楽特集」で、「ベン・ハー」の荘厳な音楽が流れていて、番組最後の曲は「アラビアのロレンス」でした(いずれもサウンドトラック盤)。

いまは懐かしい“70ミリ映画”「ベン・ハー」のスケールには圧倒されたものでした・・・こんな映画、日本にはできないなあと・・・。
そして「ロレンス」は私が最も愛する映画であり映画音楽で、このときたまたま耳にすることができたのです。MC紺野美沙子さんは、映画館の大きなスクリーンで「アラビアのロレンス」を見たかったと話されていました。

むべなるかな━━。

紺野美沙子さん以前の私の世代は、ビデオが普及するまで、家庭で映画を見るのはテレビ放送だけでしたが、恵まれていたことがひとつありました。
それは映画の「リバイバル公開・上映」で、ロードショウ劇場で、ひと昔前の名画を新作のように見ることができたことです。「風と共に」は日本で最も多くリバイバル公開されたといいます。

私はその恩恵にあやかって「ベン・ハー」「風と共に去りぬ」のほか、「シェーン」と「駅馬車」(嬉しい二本立てでした)、名曲の宝庫「南太平洋」、度肝を抜かれた映像と“二人のシュトラウス”の「2001年宇宙の旅」、さらにヘプバーンの「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」など、映画史上に輝く名作をロードショウ劇場で見たのです。

「ロレンス」の初公開は私の中学生時代のことで、慶大生であった従兄が見にいったあと、私の家に寄ってパンフレットを置いてゆきました。
パンフは上質の厚い紙を使用し、今では考えられない豪華で凝った装丁になっていました。余白をたっぷりとってあり写真カットも解説も意外に少なかったが、私にはまだ難しそうだと思いました。
当時、ラジオからは「ロレンス」の序曲やメインタイトルのサウンドトラック盤がしきりに放送されていたので、その壮麗で優美な音楽には大いに惹かれて、やがて映画も見たいと思うように。

━━ついに「アラビアのロレンス」はリバイバル公開され、巨匠デビッド・リーン監督と若き音楽家 モーリス・ジャール、そして一世一代の名演をしたピーター・オトウール(オマー・シャリフも)との、奇跡的な出会いによる「芸術」を体験することが出来たのです。

映画館は日比谷劇場だったろうか。
ティンパニーが荒々しくリズムを刻んだ後、聴き馴染んだメロディーをバックにストーリーが展開してゆき、暗い画面から眩い砂漠の映像に転じたときには、灼熱の空気を一気に吹き飛ばす抒情的な音楽と相まって、思わず息を飲んだものでした(「2001年宇宙の旅」で、猿人が高く投げ上げた骨が宇宙船に画面転換する瞬間もそうでした)。

「東京映画祭」での企画でしたか、「ロレンス 完全版」が公開された95年には、東急文化会館内の渋谷東急で「再会」しました。
地方からの出張帰りで、飛行機が延着しないかハラハラしながら夕刻の上映時間ギリギリに駆けつけることができたのでした。
映画の終盤ではアラブの民族や部族がぶつかり合って、今日の中東の様相を見るようです。

米国によるイラク殲滅から始まった、昨今の中東の無秩序化・大混乱は、ロレンスが活躍した時代の英仏両国がとった国際行動・政略に端を発するといわれ、民族・宗教の複雑さにロシア・米国もからんで、実に荒っぽい展開を見せています。
アジアでは軍事大国化した中国の横暴と、核を手にし傍若無人にふるまう北朝鮮 ━━ 一体戦後世界はこんな日を目指していたのだろうか。戦後とほぼ一緒に育った元少年はふと思います。


自身に目を転じると、いまは4月の末日に向けて一日一日が貴重な日々です。

残念なことですが、「3つのオレンジへの恋」の”リバイバル公開“はありません。
あんな店があったなあと、せめてどこか、みなさんの記憶のすみにでもとどめていただければ・・・。


2018/03/22(木)14:41
そろそろ「卒業後」に思いがはせる、大学4年生の冬の夜でした。

帰宅途上の私は、いつものように相模大野駅で下りの急行を下りると、通過待ちをしていた各駅電車に乗り換えました。


人気のないホームにホイッスルが響いてドアが閉まると、動き始めた電車は各駅停車であることを忘れたかのように、寒々しい闇のなかをスピードをましてゆきます。さっと車内を見渡すと、夜更けの時間に乗客の姿はまばらで、私の真向かいには、風采があがらない中年男性がひとりぽつんと座っていました。


見るともなくときおり正面にも目をやっていたのですが、ほどなくして、その「紳士」が私のことを凝視しているように思い始めました。最初は私の背後の、外の景色を見ているのかと思いましたが、郊外の線路沿いは、ときおり何かの照明が過ってゆくほかは暗闇です。「紳士」の執拗な視線の向け先は私であり、真剣に私の顔のあたりをなぞっているように見えました。

気味が悪くなり席を変えようかと思いましたが、やおらその「紳士」は立ちあがって、網棚から手荷物を下しはじめたので、やれやれ、つぎの駅で下車するのだろうと内心ホッとしたものです。

ところがその「紳士」ときたら、なんと今度は荷物を抱えて私の横に座り直すと、電車がひとつ目の駅に着いてもまったく下りる気配がないのです━━車内はこんなに空いているのに何んでまた?。


そう思う間もなく「紳士」は私に半身を向けながら、問わず語りに話しはじめたのでした。
私の最寄り駅より一つ先の、隣接する町で占い師をしていて、その方面では高名な存在なのだと。
相談や依頼で全国を飛びまわることが多く、その日も中部地方のさる都市からの「出張帰り」で、たまたま私の前に座ったところ、(霊視能力で)私についていろいろと見えたので、そのことを是非伝えてあげようと言われたのです。


それを聞いた私は、できれば耳にしたくない「怖い話」を聞かせたうえで、除霊や厄払いと称して商売に結び付けようとするのではないかという疑いが脳裏をかすめました。相手を不安にさせて高額な物品を押し付け販売する、そのような悪質商法がニュースになっていたのです。

おそるおそる訊いてみると、私のまわりにいくつかの人の顔が見えると言われました。

いよいよ不安が募り、「それはよい霊ですか」と思い切って尋ねてみると、どうやら先祖の、それもとてもよい霊たちが私を護ってくれているとのことでした。

「先生」はつね日頃、決して無料で見ることはないそうで、その夜とった行動は異例だとのことでした。
それほどに強い力で私は護られていたのか!━━まったく意識したことなかったが、幼いころからよいひと達に出会えてきたと思えるのはそういうことであったのか!。母が「ボクは運がいからね」と、終生、励ましにも似た言葉をかけてくれていたことを思います。

肩の力はひとまず抜けたものの、私が「先生」よりもひと駅先に下車するまで10分足らず。心の整理もできぬまま、はて何を聞こうかと、今度は質問を考える方に気がいってしまい、貴重なご指摘を憶えきれなかったことは残念です。

当時、一番気になっていたのはやはり就職先や業種でしたが、「先生」は、私がまったく念頭に置いていなかった建設方面がよいと教えてくれたのでした。もうひとつ言ってくれた業種は忘れてしまいました。

法学部出身の私は、すでに総合商社に内定しており、建設業界は建築専攻の別世界だと思っていたのでした。あのころ、建設会社はよく「土建屋」といわれ、不動産会社も、「駅から〇分」があてにならない町の不動産屋のいい加減で前近代的な存在に思えて、決してイメージはよくはありませんでした。

実は、私が商社に入ってから、30歳台になったときに図らずも「建設不動産関連」の営業部に異動したのですが、そこで「先生」のこの見立てが決して的外れではなかったことがわかったのでした。

生き馬の目を抜くと言われる商社。
結局、建設不動産部門以外の配属先は、不器用でノンビリ人間だった自分の適性に合わずに早期退職し、母校の地で「3つのオレンジへの恋」を開く。そこでよき学生・教職員・社会人たちに出会い、愛されて早や16年あまり・・・・。

━━報酬なしでは見たことがないという慣例を破らせたほど、「占い師」の本能をかきたて、告げてくれた私の守護霊の強い存在。あのとき「先生」は、私が下車するまえに、紙片に連絡先を書いて渡してくれたが訪ねていくことはなかった━━いま「先生」が私の前に立てば、私の背後にいったい何を見るであろうか。守護霊はまだ見えるだろうか。






2018/03/05(月)15:49

黒澤 明監督の映画作りの厳しさは、「伝説」として伝え聞いていました。
思い通りにならない天候に日数だけがいたずらに過ぎていったこと、大雨のシーンでは想像を絶する大量の水を使用してのド迫力、セットの背景や街並み・大道具から小道具に至るまで細部まで徹底的にこだわって、時間と予算は大きく膨らんでいったといいます。

「用心棒」は、それまでの時代劇映画では「無音」であった人が切られた瞬間に、初めて「劇画」のような効果音をとり入れたことで、三船敏郎さんの豪快な殺陣にいっそう凄みが加わったのです。


私が都立大学付属高校の2年生のとき、「記念祭(学園祭)」で、坂本龍馬の最後を描いた、石原慎太郎の「狼生きろ豚は死ね」という、氏らしい強烈なタイトルの作品をクラスで演じたことがありました。

担任であった日本史教師の黒羽清隆先生(後に静岡大学教授 1987年6月ご逝去)は、映画・演劇にも豊富な知識をお持ちで、「狼生きろ・・・」も、たしか先生の勧めによると思いました。

そのころの私はもっぱら洋画中心で見ていたので、黒沢作品については、“とても凄い“といわれていた「七人の侍」(昭和29年公開)の評判と、「用心棒」「椿三十郎」など、いくつかの題名を知っていただけ。名作「羅生門」は大むかしの映画に思えていたものです。

━━「七人の侍」といえば、私が小学校1年生のとき、「七人」の一人で、後にテレビドラマ「ザ・ガードマン」でも親しまれた名わき役 稲葉義男さんのお嬢さんが同級でした。ご自宅で拝見いたしたことがありましたが、まだ家庭にテレビのない時代のこと、幼い私には映画俳優という仕事も、黒沢作品に出演することがどんなに困難であり名誉であるのかも、わかりませんでした。


当然黒沢作品をご覧になっていた黒羽先生からは、演出や効果につき有益な助言をいただくことができました。

演出を担当した同級生の吉田君と清末君は、「狼生きろ・・・」の公演を終えたばかりであった劇団四季にアドバイスを求めに行くと、劇団側は上演の際の写真を渡してくれるなど、一見の高校生を相手に懇切丁寧に応対し、助言をしてくれたそうです。

かくして、クラスが一丸となって取り組んだ舞台「狼生きろ豚は死ね」は、惜しくも先年亡くなった龍馬役の山中 塁君をはじめ出演者の熱演と、スタッフ全員の力が結集し、目の肥えた先生方からも称賛をいただいた「歴史的名演」となったのでした━━つい中岡慎太郎役で出てしまった私━━サムライ姿で、うっかりメガネをかけたまま舞台上に現れるミスを犯してしまいしたが、何食わぬ顔で落ち着いて切り抜け!、都高18期C組のあの日の舞台は「伝説」としていまも語り継がれているのです。


黒澤映画ではないが、「3つのオレンジへの恋」の各種オムライスもクレームブリュレなどデザートも、こだわった材料に手間をかけ、こころを込めて作った作品です。


━━むかしむかし、新宿区の戸塚町というところに、「3つのオレンジへの恋」というお店がありました。
早稲田大学の正門近くにこじんまりと佇むマンションの1階で、まるで絵本の中に出てくるようなかわいらしいレストランでした。

そこには、なんにも料理はできないけれどなんだか優しいおじさんがいて━━おじさんはいつも文章を作ることに夢中になっていました━━明るく気っぷのよい奥さんが美味しいオムライスを作ってくれるのです。

お店のなかは、女子学生たちのにぎやかな声が絶えることがありません。
彼女たちが店のドアを開けて、一歩足を踏み入れた瞬間、期せずして「わー!いいにおい」。
オムライスがテーブルに運ばれると「美味しそう!」と、また歓声があがるのです。
ときには「美味しそうでございます」と。
そして、そこかしこの席で「美味しい!」「美味しいね」の合唱が始まるのでした。

「わだば日本のゴッホになる」
津軽が生んだ版画界の巨星 宗像志功の熱い思い。

たとえささやかではあっても、決して忘れられることはない。
「3つのオレンジへの恋」は、長い歴史を有する早稲田大学の伝説のひとつになりました。


(HPの記事で「3つのオレンジへの恋」“引退“を知り、悪天候にもかかわらず、高崎から二人の女子学生がかけつけてくれた日に━━)


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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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