3つのオレンジへの恋からのお知らせです  
新宿区戸塚町1-102-101(早稲田大学南門前、南門から徒歩0分)のオムライス店です。オムライスだけでなくブリュレもご好評いただいております。ランチタイム、ティータイムにご利用ください!
2017/06/17(土)19:11
「このあたりの者でござる」

野村萬斎さんが、巧みな語り口で説明をしてくれました。
狂言の始めに登場人物がこう語ると、時代も場所もなんの説明なしに、自然に話に入り込んでしまえるのだそうです。

たしかに「このあたりの者でござる」というセリフは、「昔むかしあるところに・・・」のように、見ているひとそれぞれが人物像や場所や時代を思い描くことのできる、「魔法の言葉」です。
「ござる」は、えらくかしこまった言い回しにも思えるし、相手を小ばかにして開き直っているようにもとれ、何とも絶妙です。


「昔むかし」ではない2010年の6月14日。
「このあたりの者」 私が、ブログに「オムライス屋さんのお話」を書き始めてから早や7年が経過しました。
記念すべき!?第一回は「ブログ始めましたよ!」━━わずかにこれが本文だったのです。

HPの方は1週間ほど早い6月6日に開始しましたが、何を書いてよいやらで、第一回目は不定期に行っていたパワーストーン占いの先生・・・この先生はなかなかの方です・・・の短い紹介記事でした。


それなりのことをずっと継続して書いてゆけるだろうか?書くこともなく途絶えたら?
アイディアを忘れないうちにと、日曜に書き込みに来たこともあるほど、最初は「強迫観念」にかられたものでした。

今は、一応HPでは店でのできごとなどを、ブログの方は店の関連もあれば、これまで過ごしてきた思い出など自由に綴ってきました。


あらためて思ったのは、記憶というものは深層水のようであり、説明のつかない力によって表面に現れたかと思うと、また水底に沈んでゆきます。自分でも意外でしたが、何かを手がかりにして、南十年も前の思い出の甘い水が湧き出てくるのです。そして心は少年の、青年だったあのころに飛んでゆくのです。


継続は力なりといいますが、ぐうたら以外は苦手な私が、ブログやHPの記事を書き続けてこられたのは、世田谷の多聞小学校で低学年のときに、童話や昔話・民話などをいっぱい読み聞かせ、作文を指導してくださった鴻巣静代先生と、俳句を趣味とし言葉に対する感性が豊かであった母親の影響が大きかったと思います。描きあげる・・・絵を描くことが得意だった父の存在もまた。


そして私の小学校時代への思い・母校愛が通じたのか、昨年の晩秋、多聞小学校新校舎の落成記念式典に参列することができました。
何十年ぶりかで母校の生徒たちが歌った校歌「丘の学校」(中田喜直作曲)を聴いて蘇った「あの記憶!」のことは、富士中学校の時代に続いた「3つの憧れ」とともにブログに記しました。以前にも何度か書いたことがありますが、「組替え」や「転校」による出会いや別れ、そして「再会」の不思議・・・。


黒羽清隆先生について。
都立大学付属高校時代の担任で、後に「NHK通信高校講座日本史」の面白さで「全国区」とななられたが、静岡大学教授在職中の1987年に53歳の若さで亡くなられました。先生の思い出を書いたブログは、OBを中心に大きな反響をいただきました。

テレビ講座の黒羽先生に触発されて自らも日本史教師となり、黒羽先生の追悼本を出版された八耳文之先生は、大津から「3つのオレンジへの恋」にやってこられ、私の高校卒業アルバムをお見せしながら先生を偲んだものです。

やはり私のブログをご覧になって訪ねてこられたのは、私より1年若い、都高19期の駒田和幸さんでした。
駒田さんもまた黒羽さんの影響を受け、神奈川県の名門私立高の日本史教師となり、NHKテレビ高校講座の講師を勤めました。


八耳先生とお知り合いの、早稲田大学講師の滝澤民夫先生もやってきてくれました。滝澤先生の優しく温かなお人柄にいつも感激しております。


高校卒業後、有志で杉並天沼の黒羽先生のご自宅にお邪魔してお世話になり、藤枝へのお引越しの際にもお目にかかった黒羽先生の奥様からもお便りをいただきました。やはり八耳先生から聞かれたとのことで、八耳さんの黒羽家への思いに頭が下がります。


都高 美術研究部、通称「美研」で1年上の女子荻原さんとは、昨年の早稲田ホームカミングデーの日に、「3つのオレンジへの恋」で、数十年ぶりの嬉しい対面をいたしました。今なお愛らしい先輩は、さきごろ亡くなられた元武蔵大学学長 平林和幸さんと同期で、平林さんを偲んで、美研時代の思い出を記したブログも読んでいただいたとのことでした。

以上は、黒羽先生についてのブログから生じた、ありがたい出来事の一部です。


「こんばんわ こんばんわ もうひとつこんばんは」
大学受験期に聴いていた深夜ラジオ番組の、素敵なお姉さんだった大村麻梨子さんが私のブログをご覧になって、アメリカからメールをいただいたことも嬉しいニュースでした。

私は浪人時代に、「大鳥 純」というペン(ラジオ)ネームでときどき投稿していました。
麻梨子さんがアメリカに行かれることとなり、「番組」が終了する際の大型企画にアイディアを投稿したところ選抜され、TBSラジオ、当時ラジオ東京の赤坂スタジオで対談させていただきました。

いざ麻梨子さんが待つスタジオに一人で入り、分厚い防音ドアが閉められ室内に赤いランプが灯ると、逃げ出したくなるほどの緊張感に襲われたものでした。大村麻梨子さんは私のことを思い出していただけたろうか?多分!━━麻梨子さんの別の番組に出演し、私もそのときの彼の「強烈な個性」を覚えているリスナーKさんは、私のブログを見て、自身の出演分と、私が出演した際の貴重な録音をCDにして、わざわざ「3つのオレンジへの恋」に届けていただいた、嘘のような本当の話しも。


熟年になった私が、たまたま目覚めていた際に、深夜ラジオから流れてきた一生懸命な語りと、亡き父を偲ぶ「秋櫻の秋」の歌・・・・以来応援している歌手あさみちゆきさんについてのブログをご覧になった、「広島のバスのたまり場」さん・・・わざわざ早稲田の「3つのオレンジへの恋」に立ち寄られて、ご自身で撮影されたちゆきさんの貴重なスナップ写真を置いて行ってくださった。このときお会いできなかったのは、返す返すも残念なことでした。
2016年渋谷公会堂コンサートを楽しみに待つ、その名も「ちゆきさんファン」という女性の方からも温かなメールをいただきました。お互い顔を知らないので、会場で「ブログの私ですよ!」と言うわけにもいかず・・・。


「2015 早稲田エンパクこども映画教室」では、「3つのオレンジへの恋」を舞台にして、「オレンジチーム」のこどもたちと、親御さんたちと、主催の土肥悦子さんらと、心の交流ができました。こどもたちを見ていて、小学校時代の自分はこんなにも幼かったのかと思い、是枝裕和監督ご指導の下で、そのこどもたちが作った短編映画の出来栄えに感激したものです。


「拍手」に加えて、メールでいただく「感想」には、その方の心がこもっていて本当にうれしく有難いものです。

自分でも特別な気持ちを込めて書いた、こどもの頃の「NHKみんなの歌」の「くまちゃんのピクニック」(歌 ボニージャックス)や、「西六郷少年少女合唱団」について頂いたメール。

東京オリンピックで感動の主役だった女子バレーボール「河西昌枝さんの目に涙 聴けば泣いてしまう音楽」についても。

小学校の鴻巣静代先生のご主人で、違う小学校の教師 良雄先生に教わったという男性、Hさんもやってきてくれました。

お嬢さんの受験で、2010年の暮れ、キャンパスツアーの際に広島から見えたTさん母娘。
こちらは特になにもいたしてないのに、恐縮してしまうほど、思いのこもった長文のメールをいただきました。大阪の立派な大学に入られたお嬢さんは大学院に進まれ、もう教職につかれていることでしょう。

最近では、ほんの1~2時間の間の出来事・奇跡をもとに描いた「若きフラガール」。
「古き良き昭和時代」の「通りすがり通行人」さんからは、一気に読んでいただいたと・・・。

まだまだいっぱいありますが、これまで書いてきたことも、温かい反響も、みんなみんな私の宝物です。


2017/06/09(金)15:46
「Yさんは、早稲田の文学部を卒業して新聞社に勤められて、たしか『小学生新聞」』に携わっていたかしら・・・・頭がよくて文才があって、いまは地元の稲門会に入ってエッセイを書いているので是非読んでくださいね」

中学・高校で、このYさんの上級生だったというご婦人がやってこられて、こう語っておられました。さぞ楽しい学校生活であったことでしょう。Yさんご本人からお聞きしていたこともありましたが、もっとエピソードをお聞きしたくなります。


私は小学校5~6年のころ、その「小学生新聞」を読んでいた時期がありました。Yさんがかかわった時代であれば感慨もひとしおでしたが、さすがにYさん入社前のことでした。

Yさんは女優の面影に重なる素敵な方ですが、何より礼節の方、お心遣い・思い遣りの方なのです。お友達が喜んでいたと、早速Yさんからお葉書をいただきました。いつもながらの達筆です。


稲門会サークルに発表されるYさんのエッセイを楽しみに待ち、拝見いたしておりますが、洗練された文章の品格と完成度の高さは女流作家の域であると、常々感服しています。「である」調の文章でありながら、女性ならではのおしゃれ感、可愛らしさも~「後輩」が申し訳ありません。


もう何年前になるでしょうか。Yさんがやってこられたのは「3つのオレンジへの恋」が掲載された新聞記事を、お姉さまがごらんになったことがきっかけでした、以来、温かなエールを頂いているYさんとのご縁は、「3つのオレンジへの恋」を開業しなければ、決してありえませんでした。


世の中にはこんなにもよい人が、素晴らしい方がいらしたのだ!

老若男女、これまで「3つのオレンジへの恋」で、実に多くの「良い方々」とお会いでき、いまも新たな出会いが続いています。

それは「学校」や「教室」で、よき師よき友と出会うことに似ているかもしれません。


そういえば、「3つのオレンジへの恋」の木製の床そしてテーブルやイスの配置具合には、あの懐かしい教室の趣きが感じられると思いませんか。

「3つのオレンジへの恋」は「青春の教室」なのです。


学校では相変わらずイジメが原因で、若いひとの自殺のニュースが報じられています。
世の中には弱いものをイジメる卑怯な悪い人間だけではなく、こころ優しい良い人も大勢いるのです、今とは違う世界もあるのだからと、伝えてあげたい。
私だって、会社から離れた見ず知らずの世界で、どんなによい人たちに出会い、ささえられたことか。

何より、これまで慈しみ育ててくれたご両親を悲しませてはいけません。

「教室」の先生!
教育委員会!
イジメる生徒ら !
そいつらの親もだ こら!!!


2017/05/26(金)15:02

まだ5月だというのに真夏のような陽が照りつけた、ある土曜の午後。

元 国士舘大学教授のNさんがやってきました。

やはり国士舘で教授をしていた、私の早稲田時代の同級生から聞いて、「3つのオレンジへの恋」がオープンした15年前にも来られたといいます。老学者然としたその風貌にはかすかな記憶が・・・。


国士舘といえば、私が早稲田の学生時代に法学部の教授だった西原春男先生は、やがて早稲田の総長になられた後、国士館大学理事長に転じられました。余談ながら西原先生は、先の私の同級生の仲人でもありました。


Nさんのフルネーム四文字は、その西原理事長と、「原」の一字以外は同じであったため、国士舘大の職員がとり違えて、理事長宛ての郵便やお中元などが、度々Nさんに転送されてきたそうです。食品の場合「鮮度」の問題があるので、もちろん西原さんにお伺いを立てたうえですが、再送せずにずいぶん「美味しい思い」をしたという逸話を披露してくれました。


元教授のNさんが、一連の説明の中で、西原さんの「原」の字と、「原」に対応する自らの姓(漢字)の一字とを続けて発音したとき、「原〇」という、私だけにわかる、美しい響きをもつ ひとつの名前になりました。

何気なくNさんが口にした二つの文字・漢字。その偶然の組み合わせにより、遠い日の思い出の女性の名前が、突然目の前に現れたのです。私がまだ若かったころ、生涯でただひとり、この名前を持つ女性にお会いしました。大手町の大きなビルの一室にあった英会話教室のクラスでのことでした。


この日、思いもしないかたちでその名を耳にし、Nさんからいきなり「不意打ち」をくらったとき、懐かしさとも悲しみともつかない、言いようのない感情が私の胸の奥深くを突き抜けてゆき、こころが震えて一瞬動けなくなりました。


その方は、名門の女子短期大学を卒業後、新らしく誕生した大きな都市型ホテル会社に就職、役員秘書を勤めるかたわらフロントの業務に就いていました。私とは同学年の早生まれでしたが、顔にはまだあどけなさをとどめ、堀辰雄の文学と信州の高原とを愛するひとでした。


英会話教室で顔を合わせると、すぐに私とうちとけて、好きな本を交換して読んだり、映画や音楽の感想などを語り合うようになりました。授業が終わると、東京駅から新宿まで中央線快速の束の間の時間の後には、笑顔で軽く手を振りながら、私とは違う路線の改札口の中に消えてゆきました。


まだ大学生だった私が、ときおり彼女の職場を訪ねると、彼女は休憩をとり、ホテル内の広々としたティールームで語り合ったものでした。
私は、「紅茶は左手で」という小説のなかの、知的な人間は紅茶を好むという一文に魅せられ、紅茶を飲んでいましたが、彼女は大のコーヒー党であり、私もいつしかコーヒーを選ぶようになってゆきました。
深夜に放送されたミュンヘンオリンピック 男子バレーボールの試合を寝ずに見ていたのよと、すっかり寝不足顔だったこともありましたが、何の装いをしなくても愛らしいひとでした。いつも限られた時間いっぱい語り終えると、フロントに戻る彼女を同僚の女性が笑顔で迎えていました。


あるとき彼女が親友とハワイ旅行をした際の写真アルバムと、収めきれずに束になったスナップ写真とを、折々に説明を加えながら見せてくれたのです。どの一枚からも初めてハワイを訪れた歓びと、彼女の可愛らしさが伝わってきました。そしてハワイのフラダンサーに教わったという、手の動きや振り付けを披露してくれました。時折り記憶を辿りながら、一生懸命に波や月や魚や自然を表現していました。

ただ一人、私だけのために・・・幼い少女が演じているかのような、愛らしい彼女の手や腕のフリを見ていて、あまりの幸福感に私は息苦しさを感じたほどでした。

心待ちにしていた、きれいな文字で書かれた手紙が届くと、はやる気持ちを抑えながらていねいに開封しました。するといつも心地のよいさわやかな香りが満ちてきたものです。



・・・・・ その後の人生で、私はこの佳人と同じ姓をもつ方に出会うことはありませんでした。


あの英会話教室では、彼女と一緒に「入学」した二人の女性がいました。一人はA学院大学で有名教授の助手を務めていました。既婚の方でしたが、私の相談に気さくに応じてくれ、幾度か大学に訪ねたこともありました。


もう一人は、やはり名門の女子大生で、おっとりした性格は私に近いものがありました。チャイコフスキーを愛する素敵な方・・・なぜこのとき「三人」だったのだろう・・・・。
みな聡明なうえ、美貌の持ち主でありながら人柄もよく、その三人がそろえばそれは華やかなものがありました。まさに「いずれがアヤメか カキツバタ」、私は英会話教室のショートスピーチの際に、拙い英語で照れながらもそのことを言った記憶があります。


三人とも私を慕ってくれた「女神」であり「天使」でもあり、「早慶戦」に誘い、みなで食事会をしたりと、本当に夢のような一時期でした。


「三人の同級生」といえば、やはり神からの贈り物としか思えない、小学校から中学三年にかけての三人との出会いと憧れがありましたが、青年期のこの三人もまた忘れられない「同級生」なのでした。


「三人」・・・「三」という数字・・・・・ある女性から言われて、私のラッキーナンバーが「3」であると初めて知りました。幼少年期に私が暮らした地名に「三」がついていたのも、決して偶然ではなかったかもしれません。もう辞めようと思った、商社の最後の部署でも「三人の女神」が癒してくれたことも忘れることができません。その一人とは、結婚された後も心のこもった年賀状のやりとりが続いています。


━━創業塾で出会った女姓は、若いながらもバブル崩壊時に倒産した大手証券会社で、立派な業績を上げていたといい、私の両親のルーツである秋田県の出身であることがわかって、より親近感が増しました。姓名判断・占いの素養のある、とてもチャーミングな方でした。
起業を模索していたときの「創業塾」の同じクラスで、私に何か感じるところがあったそうで、会話が始まりました。私のラッキーカラーはオレンジであることもわかり、「3つのオレンジへの恋」を店名に決めたのは、彼女の推しによるところ大だったのです。



あの英会話教室から数十年の歳月が流れていました。
私に霊感はありませんが、あのときフラダンスの所作を一生懸命に見せてくれた彼女から、突然電光がひらめいたかのような「ある啓示」がありました。
何かがあったのだ!
私は夢の中で涙を流していました。

月日はさらにめぐり、目には見えない不思議な力が働いて、遠い日の美しい名を再び耳にしたこの日。
早稲田フラダンスサークルの小集団が、強い陽射しを浴びながら、「3つのオレンジへの恋」の前の小道をいとも涼し気に通り過ぎてゆきました。ちょうどあの頃の彼女の年代・・・植え込みと植樹の緑と蔦のからまる外壁を背景に、黒髪に花飾りをつけ、色鮮やかなフラガールの衣装を身にまとったうら若き女性たちは健康美と幸福感に満ち溢れて、彼女らを待つステージへと向ってゆきました。

通り過ぎて行った・・・・。
ペギー葉山さんの「学生時代」や「ラ・ノビア」から生まれた、みんな、すべては夢の中のことであったのかもしれません。


2017/05/15(月)18:21
タバコの「煙害」については何度か触れてきましたが、ある地下鉄駅の真上にあるタバコ屋店頭には、吸い殻入れが置かれており、その横にはこんな注意書きが。
「喫煙は通行の妨げにならないようご注意願います」

たしかに、男女のヘビースモーカーたちが吸い殻入れの前に屯ろして、狭い歩道をふさいでいることがある。もってのほかだが、「ここは多くの人が行き来する 交差点前の細い公道だ!」「だから ここでは喫うな!」「煙を出しても迷惑をかけないところで喫え!」「言われなくても分かるだろ!」とするのが本当の注意事項であり、販売店としてのせめてもの良心だと思う。

病気のひとや妊婦さん、乳幼児も高齢者も通行する、狭い歩道にあるその「喫煙場所」では、たとえひとりでも喫煙すると周囲に煙が流れ、目の前交差点の信号待ちでは、息を止めなくてはならず、違う方向に逃げ出すこともある。

有毒な空気・煙・臭いは、すぐ横の地下鉄の階段を駆け伝って、長い地下通路から改札口に至るまで、空気汚染の凄まじい広がりをみせる。
通りかかった地下鉄利用者は、「不味い空気」の理由も「煙害」への怒りの向け先もわからないまま、改札口から「煙突の中」のような通路を歩行中、ずっと有害空気を吸い続ける。健康への影響は深刻だと思う。


渋谷待ち合わせの名所、ハチ公前は今では喫煙禁止となり、駅近辺の喫煙場所は、少し離れたモアイ像のところだけになったようです。
しかし、ハチ公前では夜になると喫煙者が増え、翌朝にはハチ公像周辺の植え込みが、大量の吸い殻で雪のよう真っ白に覆われるとのこと。

あまりにひどいので渋谷区では、昼間の間は管理人をおいて注意したり、モアイ像に誘導するそうでが、人手が足りずに追いつかないそうです。予算が組んでいないため今年度は要員を常駐できないとのことですが、これはもう本末転倒。

有毒物を製造販売しているJTが売り逃げして、「クリーンイメージの広告」以外には社会公共のためになにもせず(そう思われても仕方がない)、地方自治体にはタバコの税収が入るのかもしれないが、「喫わない人からも」の税金で対策しなければならないのはおかしい。製造・販売者であるJTに、喫ったひとにも大きな責任がある。

ついでながら、吸い殻を下水溝にポイ捨てする人が多いが、水に溶けたニコチンの下水処理・浄化にかかる費用は莫大なのだそうで、喫煙者が当たり前のように行っている行為は、こんなところでも大迷惑をかけているのだ.


「分煙化」の流れで、池袋駅東口の車道と車道の間の「中の島」には、一見、隔離されたかの大きな喫煙場所ができていた。
たまたま信号待ちでそこの「島」で足止めをくい、大量の喫煙者が出す高濃度の煙・臭いにつかまってしまった。逃げ出そうにも逃げ場所もなく、青信号を待つ間、何度息を止めざるを得なかったことか。エレベーターも同様で、ひどいときには姿はないのに「いた」痕跡・匂いがしぶとく残っている。

アルコール党として、喫煙者の気持ちはわからないではないが、もはや世界的Iに指摘されている紫煙・副流煙の害毒。JTは儲けの中から、公共スペースの喫煙場所に高性能の空気清浄機や、歩きタバコ・ポイ捨てなどの監視人員を、自らの費用で設置配備すべきと思うのですが・・・無理ならば、少なくとも「本人以外には無害の煙草」を開発すべきです。

かつて、公害を垂れ流してきたメーカーや企業は大きな社会問題となって厳しい指弾を浴びたが、「タバコ産業」はいい加減なものですと言われても仕方ありません。

「人も歩けば 副流煙にあたる」「雪のような 吸い殻の山」ではひどすぎます。

日夜、禁煙活動を続けておられる「禁煙ジャーナル」渡辺文学さんに、エールを送らせていただきつつ・・・。



2017/05/05(金)13:46
「第九」のライブは何度聴いたことだろう。
暮れに聴きに行く習慣まではなかったので、意外に少ないかもしれない。

初めは、早稲田の学生時代に、同級生たちと東京文化会館で聴いて大変感激したことを覚えています。早稲田OBである山岡重信さん指揮の日本フィルでした。

その後1~2回は聴いたはずですが、いつごろで、どこのオケだったのか何故か思いだせない。最近では今年の3月、早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団の「卒団公演」で、久しぶりに「第九」のライブを聴かせていただきました。今回の演奏は決して忘れられるものではありませんでした。

この日、ときおり音が外れたような気もしたが、楽器を手にしたことはなく、譜面も読めない私には全く気にならないし、若々しい演奏は少々のミスなどものともしません。征矢 健之介さんの指揮で、「歓喜」に向かってグングン進んでゆきました。

独唱(Sop:田原 遥、Alt :金子 紗弓、Ten:吉田一貴、Bar:山田 茂)も、合唱(早稲田大学混声合唱団)の出来も素晴らしく、日頃口うるさい同級生三人もこの日の演奏には大満足でした。

「卒団」ということで、終了後4年生が一人ひとり立ち上がって紹介されたが、オーケストラのあたたかい空気が客席にも伝わってきました。早稲田大学交響楽団とはまた違う持ち味があるようです。


━━フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニ、ベーム、バーンスタインEtc・・・レコード・CD・ビデオ・BS放送・FM放送など、これまで多くの「第九」を見聴きしてきました。

作曲者の指示通り、つねに楽譜に忠実であろうとした”鬼神“トスカニーニと、ときに夢遊状態のようになり、演奏ごとに表現が変化したフルトヴェングラー・・・この二人は指揮方法・演奏論が衝突して仲が悪かったようです。

「ノー ノ―」と、つねに」オーケストラをギリギリ搾り上げ、テンポをくずさずにひた走ったトスカニーニは、激高して指揮棒を折るなど、あまりに厳しいことから「トスカノーノ」と恐れられた。
「第九」の第三楽章ではゆったりと、夢のような美しい展開を見せたかと思えば、終曲部では、練達のオーケストラがついてゆけないほど、猛烈なスピードで締めくくったフルトヴェングラー。


昨年の早稲田フィル「巨人」では、炎の小林研一郎さんの指揮で熱演しましたが、演奏技量的に苦しい箇所がどうしてもでてきてしまったと思います。しかしながら、この日の「第九」には、「大物指揮者たち」の演奏をさておいて、心を動かされました。


演奏会場の杉並公会堂に向かう途上、櫻井一郎さんの奥様に偶然お会いし、開演前のひととき、暫しお話しできたことは嬉しいハプニングでした。私が起業した時には、まだ小学生だったご子息は、もう社会人になられたそうで、この日、ワセフィルの一員として演奏されるとのことでした。

櫻井さんは、「早稲田大学周辺商店連合会」の事務局長として尽力活躍され、私も2002年の開業前から大変お世話になった方でした。先年、惜しまれてお亡くなりになったときには、鎌田総長が自ら感謝状を読まれて、長年にわたる功績を称えました。早稲田の商店会では櫻井さん以外余人には考えられない、大学からのはからいでした。


━━ワセフィル 2017/3/21 杉並公会堂 の「第九」、そしてさきごろ目出度く定期演奏200回を迎えたワセオケ。
それぞれの演奏を聴かせていただき、早稲田の誇る二つの学生オケには、プロのオケにはない「予想外」の魅力があることを知りました。ワセフィルでは、会長水島朝穂先生による日頃のご薫陶や支えも、さぞ大きいことだろうと思います。

サンマは目黒にかぎるが、どうやら「第九」と「オーケストラ」は、「早稲田」にかぎるようです。


(付記)
5月8日。
「第九」で見事な合唱を披露してくれた「早稲田大学混声合唱団」と200回公演の「ワセオケ」の、二人の女子メンバーがやってきました。このブログと、ワセオケ演奏会の記事(「熱心な”ワセオケ“は玄人に優る!」)とを紹介できたので、授業の後でご一読願えれば幸いです。

私が櫻井一郎さんに初めてお会いしたのは、「早稲田大学周辺商店連合会」(外部からはわかりにくい、この長い名称や組織も櫻井さん提唱によるものでした)が、大隈小講堂で開催した「創業ビジネス」のイベントでした。
黒のタートルネックセーター姿の櫻井さんが、まるで演劇のなかのように舞台ステージを行きつ戻りつしながら、「パワーポイント」の画面で説明を行っていたのが印象的でした。

そのとき、効果音楽として使用されていたのが、あの「ツァラツストラかく語りき」と、荘厳な「第九」第一楽章の冒頭、第一主題の部分でした。最後の方では「歓喜の歌」あるいは「第九終曲」も使用されていた気もしましたが、どうであったか。
このとき以来だった櫻井さんとのお付き合いで、メディア関係へのご紹介等、陰になり日向になりご支援を賜りました。

私は、早稲田で起業したことから「早稲田学報」に2回も寄稿できたことを話すと、櫻井さんはたしか5回載ったと「豪語」されていたことを思いだします。

「淡い水の如き」お付き合いでしたが,演奏会の日、「一度お酒をくみかわしたかった」との、叶わなかった思いを、奥様にお伝えしました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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