2011/04/28(木)11:41
大隈重信候のすごいのは、明治14年の政変で盟友の裏切りにあい政界を追放されても、泰然としていたということです。

ふつうの人物であれば悲憤慷慨、荒れるか逆に落ち込むか、怒りの巻き返しを図るところですが、「わが輩の気持ちは秋晴れの空のようである」と話し「予は愧ずる事なし…天地に明治政府の職を辞したるものの手本を示す」と悠々自適の生活を送ろうとしていたそうです。

しかし、小野梓、前島密らともに官職を辞したものや、福沢諭吉門下の犬養毅や尾崎行雄等三田派の新聞人、知識人が放ってはおかずに大隈候のもとに集まったといいます。

そして小野はといえば通勤用の人力車を売り払い、釣り道具を買い求め、政敵の目をあざむくため隅田川でのんびり釣り糸を垂れ、一方で著作に励んでいたそうです。

小野は土佐の宿毛村に生まれ,幼少のころは病弱であったが、戊辰の役の際には従軍もしたそうです。やがて士籍を脱し平民となりました。そして大阪の義兄小野義真の許で英学を学び、明治4年に20歳で渡米して法律学を研究。

翌5年には官費留学生として渡英。銀行理財を調査していたところ病に罹り、7年に帰国後は司法省で民法編纂委員や、元老院書記官をつとめるなどその力を如何なく発揮したのです。

小野は、明治7年5月の帰国後、大隈に会ったが、大隈は数語を交えただけで、文句無く小野の人格と学識に惚れ込んだといいます。まさに英雄と俊傑の歴史的な出会い、早稲田大学建学の「父と母」との歴史的な出会いの瞬間だったのです。

明治14年、小野は大隈の意を受け、大隈のふたつの夢のひとつ議会政治開設を実現すべく、小野組と呼ばれた小野と高田早苗ら少壮の学徒7人と立憲改進党設立のための綱領、政策づくりに入りました。

同時に大隈は、長年の、もうひとつの夢であった学校設立の意向を小野らに伝えました。このとき小野梓が年長とはいえ30歳で、ほかの7人も20歳台半ばの帝大生や卒業生でした。

小野は大隈のふたつの夢の実現に向けて超人的な活動を始めたのでした。

(参考:早大出版部「早稲田大学八十年史」、新潮社、榛葉英冶著「大隈重信」)




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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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