2011/10/29(土)15:16
学校のクラス替えや席替えの波紋。

一人の転校生によって生じる小波(さざなみ)・・・・。


一年生の新学期は朝日のように新鮮で晴れやかだが、学内の様子が分ってきてからのクラス替えや席替えには、季節の変わり目に感じるような寂しさと希望の思いが交錯します。

転校生にとって、その思いのレベルは極限状態であることでしょう。

クラス替えや席替え、そして転校がもたらすクラスの景色の劇的な変化と新たな出会いは、学校生活の醍醐味であるといえるかもしれません。

それ以前のクラスは、大切なひとと出会うまでの前奏曲・・・・・。


私は、小学校、中学、高校でそれぞれ一回クラス替えを体験しました。
小学校では四年になるときに大きな組替えがあって、ほかにも小さな入れ替えが5年までの間に二度ありました。担任は女の先生と男の先生のお二人に3年間ずつみていただきました。それまでの先生や親しい仲間との別れは残念でしたが、すぐに新しい仲間に慣れました。

ひょうきんな男子たちがいて、先生が授業で彼らを当てると、頭をかきかき立ち上がって、必ず何かしら笑わせてくれる・・・授業時間は彼らの貴重な演技の発表の場でもあるのです。多くはありませんでしたが、女子のひょうきん者もいて、それぞれがクラスを明るくしてくれました。

先生がかれらに当てるのを、みんなが楽しみにしていました。期待を込めたクラス全員の目が彼らに注がれるのです。クレイジーキャッツが、テレビの画面からお茶の間に新しい笑いを提供していた時代。クラスの「おもしろ組」はギャグや仕草を取り入れては、競って芸を磨いていました。

その頃は、女子のこと以上に、そんな男子「おもしろ組」が同じクラスになると嬉しく、離れてゆくと残念に思ったものです。今度のクラスに「おもしろ組」はいるだろうか?。


クラスが別になると、それまでの仲間が、先生が随分遠くに行ってしまう・・・・・まるで別の学校になったかのようです。一方で、こんな素敵なひとが、いい奴がいたのに何で気がつかなかったのかと思うことも。


中二のときのクラス替えでは、私のこころの中の「幻の少女」と、奇跡のように同級となった、淡い淡い思い出がありました。


中学の卒業アルバム、彼女のいたサークルのモノクロの小さな集合写真。
彼女の顔だけが白く輝いている。

まだ違う小学校だったあの日、偶然に乗り合わせたバスの中のよう。
あのときも彼女は、うす暗い照明の後部座席の谷間に咲く、可憐な白い百合のようでした。


しかし中二で起きた「奇跡」は、まだうら若かった私の胸には辛い一面を合わせもっていました・・・小五のときのクラス替えでいっしょになって以来、憎からず思っていた少女もまた、このときのクラス替えで一緒になったのです。


そして中学三年のある学期の席替えで、今度はその二人が並んで私のすぐ後ろの席に!。
小学校では私の前の席に座り、振り返って話しをしてくれた少女は、中学で再び同級になった私を、今度はすぐ後ろから眺めることになった。振り向けば、そこにはそれぞれに思いを寄せた「彼女たち」が座っているのです・・・毎日・・・その学期のあいだ中ずっと!。
そのときの席替えは自分の好きな友人と隣になれるルールだったのです。

一年のときに「幻の少女」はまだ幻のまま・・・この二人とは違うクラスだった私は、彼女たちが同じサークルに所属していて仲がよかったことを知りませんでした。

いまは意識すまいと思っても、すぐ後ろの二人を意識してしまう。
居ながらにして楽しそうな二人の会話が聞こえてきます。ときには振り返って私も加わりました。本当にこんな幸運はめったにあるものではありません。

彼女たちが「『砂に消えた涙』がよい曲よね」と話していたときのこと。

   ♪ 青い月の光を浴びながら・・・ 
     
     砂の中に埋めた愛の手紙 恋の日記・・・ ♪

ミーナが歌うカンツオーネ、日本語でも歌われる、失恋の物悲しいその曲は私だって好きだったが、敢えて畠山みどりが巫女さん姿で歌う、女子のおしゃれ感覚とはほど遠い『恋は神代の昔から』が面白いと云うと、二人は「エー!」と顔を見合せました。


結局、その学期、そのひとりと、ふたりと、多くを話すことができなかった気がする。
振り向くのは、配布書類を後ろに回すときだけだったような・・・・。


小学校のときに、偶然に乗り合わせたバスの中で何度か見かけたものの、人生のなかでは決して出会うことはないと思っていた憧景、幻が、現実の少女の姿となってクラス替えで同級生になった!。

二年と三年のときに、2人で学級委員をつとめることもできた。

学級委員は、毎学期、男女1名ずつが生徒の投票により選ばれるが、男女ともそれぞれ候補者が数名ずついるため、ある学期に、どのような組み合わせで選ばれるかは全く予測がつきません。戦後ベビーブーム世代と呼ばれ、もっともこどもの人数が多くクラスの数もまた多かった・・・あの時代のことでした。


しかし、小学校の同じクラスで戯れたひとは・・・中学では1年間違うクラスだったブランクも重く、もうあのころのように無邪気に何でも言い合うことはできなくなっていた・・・・。

小学生のときに彼女の口癖だった、あのおしゃまなセリフを、中学では僅かに1~2度聞いたような気がする・・・懐かしかった・・・同時に、ほんの2年ほど前の小学校での日々が、遥か遠くへ行ってしまったと感じた。もう、あのときのように彼女が男子と言葉で戯れることはなく、私が彼女にそのセリフを云わせることもなかった・・・。

彼女をまえにして、否、そばにいなくても、同じクラスの、幻だった少女に好意がある素振りを見せることなど、私にはとてもできることではありませんでした。彼女たちがサークルも同じで、いつも一緒で仲がよかったということが、心のどこかでひっかかりました。

おしゃまだった彼女への、私の「幼い日の誠」の気持ちがあったったのかもしれません。

これ以上は望めないほどの贅沢な席でしたが、彼女たちの目の前では、隣の席の友人との会話ひとつにも神経を使う学期となりました。その学期だけではなく、嬉しさと息苦しさの二年間でした。

このころ巷には、学生服姿の新星、舟木一夫がさわやかに歌う『高校三年生』『学園広場』『修学旅行』といった学園ソングが流れていた。まだ中学生ではあったが、ちょっと切なさのともなう私の心や学校生活を歌ってくれているようでした。



小学校時代半ばまで、私は席替えの都度、席の近い女子と友達になりました。

幼なくて、当時はその存在を知りませんでしたが、黒沢明の「七人の侍」に出演している、有名な俳優のお嬢さんのお宅にもよくゆきました。

そのご家庭での、まだ当時は珍しかった誕生会にも呼ばれました。
お母さんはモダンな美しい方でしたが、さすがにお父さんはお仕事で、めったにお顔を見たことはありませんでした。

近年、名わき役として親しまれていたその俳優の訃報が新聞に載りました。
喪主は、懐かしい、活発な一人娘であったお嬢さんのお名前でした。
むかし楽しい思い出を頂いたご家族にお悔やみに行くべきだったか・・・喪主がお母さんの名でなかったことが気にかかりました・・・。

昭和初期に世界で活躍していたプリマドンナと同じ、美しい名前をもつ女子の家にも毎日のように行き、本人以上にお母さんや妹さんとも親しくなった気がします・・・。


あの頃は、放課後に誘われるまま女子の自宅にゆき、何の気兼ねもこだわりもなく遊んでいました。私が行ったというよりも、女子に引っ張られて行ったようなものであった。

「あら!来てたの」

お母さんたちも物静かな少年を可愛がってくれました。



あるときには、同級の女子3人といっしょに入ろうと、銭湯に行くことになりました。
女の子のひとりが、お風呂屋さんを利用していて、話がもりあがったのです。

小学校三年のときでした。

その三人が、浴衣姿やお風呂支度で、私の家に迎えに来ました。

土曜日だったのか、父がいて事情を知り厳しく怒られました。
私も、三人の女子も、なんで父がそんなに怒るのか分からないまま、中止になりました。

まだ、みんな幼く素朴でした。


その年頃にはよくあることでしたが、いつも一緒に遊んだ仲のよかった女子といるとき、やっかんだ男子や、ときには女子からも「二人は結婚するんだ」と、冷やかされたことも度々でした。

言った当人にも結婚の意味は分らないのでしたが、なぜか恥ずかしくて、私はあわててその女の子の前で「違うよ!」と云ったが、幼いころのこと、そのことで相手を傷つけることはありませんでした。


それがきっかけではないのですが、やがて、女の子といっしょにいるのが、なんとはなしに不自然な気になってゆきました。

男子の友だちとの付き合いが深まってゆきました。


まだ初恋以前・・・・。



無邪気な時代は過ぎ、小五のクラス替えで一人の気にかかる女子が現れました。

教室の前方の席に可愛い子がいるのかな?。
席が離れていたため、同じクラスになっても暫くの間はその存在に気が付かなかった。

私の学年は6クラスあり、たとえクラスが違っても目立つ女子はいたのだが、彼女はそれまで全く見かけたことがなかった・・・なぜ、いままで知らなかったのだろう・・・途中で転校してきたのだろうか?。


ある日から、「おげれつだわ!」「まあ! おげれつね!」という、聞きなれない言葉をたびたび耳にするようになりました。

「ん? お・げ・れ・つ って何だ?」

席替えにより、彼女の席は私と隣の列の後方となり、声が聞こえるようになったのです。

「お下劣」という、小学生の子どもは先ず使わない、そんな言葉を話すのは一体誰だろう?。

振り向いて、その言葉を発しているらしい女子の方を見ました。そこには目元の涼しい、スッキリした顔立ちをした少女がいました。

そして、近くの男子に対して頻りに「お下劣!」の砲火を浴びせていた。
それが彼女でした。


そのころ、私の身体は成長してゆき、メガネをかけるようになりました。

PTAの母親たちからは「立派ねえ」とほめられましたが、もはや、幼少時の「もて少年」の面影はありませんでした。

男女の意識もなく一緒に遊べた三年生くらいまでだったら、きっと彼女の家に呼ばれていただろうに・・・。


あるとき、その少女と、クラスの誰が好きかと言い合うと、彼女は、私の友人の
ハンサムボーイの名を・・・私は誰の名も口にすることができなかった。



ある日、小学校の家庭科の授業で、かんきつ類か、でんぷん質の野菜をそれぞれ持参することになった。彼女はクラスでただひとりレモンを持ってきていたのだった。

多くの生徒が持ってきたフルーツはミカンで、レモンは当時はハイカラでまだ珍しく、私は果物屋などで見かけたが、黄色い紡錘形をした飾りもの程度にしか思っていなかった。

家ではまだ使ったことがなかった実物のレモンを目にして軽い衝撃を受けた。

同時に、私にとってはちょっぴり酸っぱいレモンのようであった彼女と、洋風で、おしゃれなレモンとの結びつきがとても気にいった。

彼女のセンスは、体育の時間に当時は女子が体操着として着用していたブルマーを嫌った。彼女が運動着として身に着けたものは、いまでは当たり前になっているがあのころは全校でもほとんど見なかった、紺色のいかにも軽快なショートパンツだった。

女子も男子も、こどもらしい小ざっぱりしたものは身に着けても、おしゃれファッションとは遠い時代だったが、彼女は趣味がよかった。

運動会や体育の準備体操などで「ラジオ体操第二」の音楽がかかるときがある。
彼女は「第二」のなかで、力瘤スタイルに両ヒジを曲げ両足を開いて2回踏ん張るポーズを嫌い、いつもその部分はいい加減に流していたものだ。

そんなとき、そのポーズを「ウンチングスタイルだ」と云って彼女を冷やかしていたワンパク男子が、ときには私も彼女を振り返った。ほかの女子はみなふつうに行っていたのに、「ゴリラみたいでいやだ」と言っていたそのポーズは、彼女の美意識にそぐわなかったのだろう。


そんな彼女が、ついに私の前の席に座った学期には、よく他愛もない話に興じていたもので、目の前の彼女と会える毎日が楽しみだった。

何を話したのだったか、やがて私も「お下劣ね!」の洗礼を浴びることとなった。
言われちゃった!・・・私はなぜか嬉しく、彼女もまた「お下劣だわ」と云うことを楽しんでいるように思えた。

「ちょっと聞いてくれる!。今日、朝まだ暗いうちに、庭の梅の木にウグイスが来て、ホーホケキョ!って鳴いたのよ!」。
春の使者のことを嬉しそうに私に話してくれたこともあった。

チョコチョコと動き回るウグイスの愛らしい姿や、ユーモア感漂うその鳴き声はひとを和ませる・・・話しを聞いた私にも彼女の喜びが伝わってきました。
何日かすると、早朝の我が家の庭にもウグイスがやってました。



あるとき私は、目の前の彼女の椅子の背にかかっている赤いランドセルの両の肩ベルトに、ひとつずつ画びょうを刺した。
下校のときに彼女を驚かせようとした、ちょっとした悪戯心だった。

一晩たち、私はその悪戯をすっかり忘れていた。

翌朝顔を会わすや、彼女から「私のランドセルに画びょう刺したでしょう?。
家に帰るまで肩のところがチクチク痛くて・・・おかしいと思って見たら画びょうが刺さっているじゃない!・・・。もうやらないでよ。絶対ね!本当よ!・・・」
いきなりクレームがきた。

その学期、彼女と並んで座っていたのは、私が小学校に上がるまえから双子の兄妹のように親しくしていた少女・・・ルノワールが描くような愛らしい少女でした・・・・・。
ふだん穏やかなその少女も珍しく「そうよ、いけないわよ」と、彼女と一緒になって、ふくよかなほっぺをふくらませ、可愛らしい目を精いっぱい怖くして私を睨んだのでした。

「ごめん ごめん」
もとより悪意などあろうはずのない私は、すぐに白状して平謝りしたが、彼女がケガをすることもなく軽くすんで、大事に至らずに本当によかった・・・。

彼女もいつまでも怒ってはいなかった。


あるとき彼女が、まえに彼女が好きだと云っていた彼と私のことを「二人はシスターボーイ」だと言った。当時、「美青年」丸山明宏さんがその代表格だった。友人の方は、ハーフっぽい美少年だったが、私の方はほめられたのか、軟弱だとけなされたのか?。


小学校六年のときには、図書館の司書をされていた女の先生の自宅に招かれて、ごちそうになったことがあった。

招かれたのはわたしたち四人の男子と、彼女。そして「ランドセル事件」で友情のほっぺをふくらませたあの女子と・・・。

幼なじみともいえるその少女はおっとりとして、穏やかな性格でした。

彼女の家は銀行の社宅で、私のいる官舎と隣接していました。少女と私は小学校に上がる前から、まるできょうだいのように終日を過ごしたものでした。

インドのネール首相が敗戦後の日本を元気付けようと、上野の動物園に贈ったゾウのインディラが明るい話題となっていた時代。

司会の芥川也寸志さんが番組の終りに「カルメン序曲」などの名曲を颯爽と指揮をする豪華なテレビのクイズ番組があったが、私はまるで家族の一人であるかのように、ときどき少女の家で夕ご飯を頂きながら観ていたものでした。

可愛らしいその少女とずっと一緒にいたくて、翌日が休みの日などにはそのお宅に泊めていただき、翌朝、朝ごはんをごちそうになってから帰宅したこともありました。もちろん、お昼やおやつををごちそうになったことは度々・・優しいお母さんでした。

あるとき、彼女の家で捕獲器にかかったネズミを見た。
水に浸けて殺すのだと、そのお母さんが平然と言ったときには、どこか離れたところで逃がしてやれないものかと、捕獲器のなかで不安げに、せわしなく動くネズミを目にして思った。
人間には有害な動物がいるということを、そこで学びました。


やがて小学校五年になって、幼い日々に多くの思い出を共有したその少女と同級生として再び顔をあわせたときには、何故だかとても気恥ずかしく、ほかの女子以上の親しみを感じてはいたものの、あの頃のようにいつも一緒にいてきょうだいのようにふるまうことはもうありませんでした。

そのことは私を少し悲しい思いにさせました。
幼いころあれほど一緒に過ごし、そのときもなお愛らしかった少女・・・。

幼い日に大切だった宝物は、ひとが成長をしてゆくにつれ、失ってゆかなければならないのだろうか・・・。



司書の先生のお宅に招かれる前には、先生と男子の仲間で後楽園遊園地に遊びに行ったこともありました。ローターという、遠心力で身体が筒状の壁にはりつくマシ-ンが、当時最新鋭の遊具でした。

眼鏡がおしゃれな、若く美しいその女の先生に招かれた少年少女たちもまた、みな美しかった。ひとり、あの時代の私の、しゃれっ気のない眼鏡だけは様にならなかった・・・。

歯科医である、先生の優しそうなお父様が顔を出されて、にこやかに我々子供たちに挨拶をされました。

先生のお宅は楽しいひとときではあったが、中学生になる前の男子と女子の間の壁ができかけた時期、意識している女子の前では、慣れない洋食のフォークとナイフが窮屈で、男子だけの方が伸び伸びできてよかったのにと思ったものだった。

「お年頃」になった彼女たちもまた、女同士の方がよいと思ったかもしれません・・・。


「明日新しいお友達がやってきますよ」
「男女どっちですか」
「女子です」
担任の、女性教師が眼鏡の奥の優しい目でにこやかに告げました。どんな子だろう、一瞬みんなざわつきました。

翌朝、「レモンの少女」と「幻の少女」とがいた私のクラスに、ひとりの女子転校生がやってきました。中学三年の一学期のことでした。
小麦色の肌で、パッチリと明るい瞳の色が印象的な女の子です。

まず先生に紹介されてから、彼女が教壇の前に立ち、少し短く思うフルネームを云いました。

初めて聞くその名はよく聞き取れなかったが、こちらがつい微笑んでしまいたくなる、外連味のない、とてもかわいい少女だと思いました。

眩しい陽射しの中、新鮮なオレンジのように輝き香るその少女は、臆せず人見知りをしない性格のようで、すぐにクラスに溶け込んでいたように思いました。

温かな家庭で、純粋に、素直に成長したのだろうという雰囲気がありました。

彼女とだったら「やあ、こんにちわ」と、昔からの知り合いのようにフランクにお話ができそうでした。

出席簿上の彼女の席は名前の50音順ではなく、女子の一番最後の席になりましたが、これまで席替えやクラス替えで強運だった私も、彼女と近い席になったことはありませんでした。


ある日の休憩時間、彼女は机と机の間の狭い通路に立ち、席に座っている女子と何か楽しげに話しをしていました。

転校生の彼女が着ていた制服は、多くの女子が着ている濃紺の標準服とは異なり、
少し水色がかった紺色で、派手ではないが可愛いデザインでした。

私は、彼女が背を向けて立つその狭い通路を、「ちょっと通るよ」と声をかけるのも照れくさく、遠回りで行くのもまた面倒で、彼女の華奢な身体であれば後ろ向きならお互いの制服布地で摩擦なしに、滑り台のようにスルリと通り抜けられると思いました。

私は後ろ向きで彼女が立つ反対側の机に両手をつき、少しでも抵抗を少なくしようと
自分の身体を持ち上げ気味にして通り抜けようとしました。

しかし通路の幅は思った以上に狭く、何とか入りかけた私の半身でしたが、紺色のスカートをはいた彼女のお尻とお尻のくぼみに、私のお尻の片方がピッタリと合わさってしまい、全く動くことができなってしまったのです。


ドキッ!と電流が走り、瞬間、天を仰ぎました。

外そうとして窮屈な隙間で何とか身体をずらすと、今度はもう片方のお尻が!。
まったく動くことができません。

男子の私が顔から火が出るくらい恥ずかしく、彼女には大変申し訳ない思いでいっぱいでしたが、彼女はと云えば、ようように通り終えた後、私が「ごめんね」と謝ると、「何かあったかしら?」とばかりに、屈託のない笑顔で私を振り返り、席に座っている女子と再び楽しそうに談笑を始めたのでした。



彼女は歴史のある、女子校系の都立高校に進みました。

高校三年のときに全校役員の一人になった私は、ある春の一日、彼女が通う高校で行われた、近隣の都立高三校の生徒役員会のために、初めてその高校に足を運びました。

端が霞んで見えないくらいに広い校庭を持つ、前身が旧制高校だった私の高校と違い、旧制女子のその高校は小じんまりとして可愛らしい印象でした。

学校の休みの時期だったせいで校内に生徒の姿はまばらだったが、彼女のことを想うと胸がときめいたものでした。

このとき、連絡をとって高校生になった彼女の笑顔を見たかったが、電話をする勇気がありませんでした。
一体、中学卒業以来、突然に電話をして喜んで会ってくれるものだろうか?。
笑顔を交わし合ったことはあるが、親しく話し合ったことはなかったのに・・・。

「レモンの少女」と「幻の少女」とがいる、夢のようだった中学のクラスであったが故に、私は、おそらく不安な思いで「転校生」としてやってきたであろう彼女にフレンドリーに接することもできず、二人の間の距離を縮めることができた短くも大切な時間を失っていた。



やがて女子大に進んだ彼女。

その女子大は、小学校のときのあの司書の先生の母校で、良家の子女が通うと云われた老舗の女子大でした。

小学生時代の半ば、目の前に一大団地ができるまでは、高台の私の家から遥か向こうにその校舎が望め、バスや玉電の駅名でも「〇〇女子大前」とアナウンスされるので、私は幼いころからその女子大の名に馴染んでいました。


私が大学に入ってから、漸く、彼女とデートをすることになりました。
幼い日に家族と行き、小学校の遠足でも行ったことのある上野の動物園と公園を散策しました。

私は伊勢丹で買ったブルー系のセーターにジャケット、グレーのズボン姿で、久々の対面。

女子大生になった彼女はお嬢さんに成長されていましたが、童顔で、中学の時の面影をとどめていました・・・たしか、ベージュ系のハイネックのセーターと、当時流行ったパンタロン?いやスラックス?カラーはホワイト系?いやブラックだったろうか?。

品よく、にこやかな姿があり、健康な若々しさにあふれ、笑顔がとても眩しかった


私は、後に60歳を過ぎてからの高校のクラス会で、ひとりの同級生から云われたことがあった。
「高校のとき、君はクソまじめで全然面白くなかったよ」。
ユーモア感覚もあるつもりだが、自分でもそうういう面が強かったとは思う。



中学時代、ある日の英語の授業で、私は何かの用で少し遅れてしまったことがある。トイレだったかもしれない。

私は、後方ドアからではなく教壇側、教室前方ドアの方から入ると、やおら胸ポケットから生徒手帳を取り出した。そして「警察の者だが・・・」と、テレビドラマなどで刑事がよくやるようにして、教壇にいた教師に生徒手帳を差し出しながら席に着いたのだった。

一度はやってみたい演技でしたが、クラス委員としての「公務」で遅れたと思ってほしい気持ちと、照れ隠しのつもりでした。

ユーモアセンスのあったその先生は「ウンウン」とうなずいていて、クラスのなかは爆笑の渦につつまれました。結局、遅刻扱いになったのかどうかはわかりませんでした。

このとき、「レモンの少女」と「幻の少女」は同じクラスだったが、彼女はまだ転校してきていなかったかもしれません。

もしもいたとしたら、この「世紀の演技」にきっと大笑いしたに違いない。


女子大生となった彼女との待ち合わせ場所は新宿駅であったろうか、上野駅だったろうか・・・中学で転校生としてやって来たときから思いを寄せていた女性と、本当に久々に対面した私は緊張の連続であった。デートのあいだじゅう、体に力が入って、気の利いたことのひとつも言えなかった。

ともかくも、年頃になって初めてのデートらしいデートでとても疲れた一日でしたが、彼女が快くお付き合いをしてくれたことだけがうれしかった。


その彼女とは、ときおり文通をしました。
お互い近況を伝えあいました。
なかなか言葉も交わせなかった中学時代を思うと夢のようです。

あるときの手紙に、旅先での楽しそうなスナップ写真が同封されていました。
彼女の面影は中学のときとまったく変ってはいませんでした。


純情無垢で明るい性格のこの女性に、惹かれてゆきました。

上野公園でのデートはこのころのことでしたが、デートのときの堅苦しさで彼女から嫌われなかっただろうかと、内心では心配していました。
真面目でつまらないから、もう会ってはもらえないかもしれない、とも思っていました。

しかし、私の不安な気持ちを吹き飛ばすように、この付き合い下手な私に、私の父同様、中央官庁に勤めている彼女のお父さんが会いたいと云っているとのことで、ご自宅にお招きを受けたことがありました。


大変嬉しいお誘いで、光栄なことでした。
幼いころのようには、もう多くはないであろう女性からの招待、しかも中学で
転校生として現れたときから心ときめいたひとから!。

幼いころのように、気軽に遊びにゆきたいものだと思った。

「なかなかいい青年じゃないか」
「そうですね。私もそう思いますよ」

ご両親の横で彼女の顔がほころぶ様子が浮かんでくる・・・・。

彼女からのお誘いに、私の青春の胸は弾んだ。


彼女同様、公務員だった私の父とそして母も、もし私がこの「お付き合い」のことを話したならばどんなにか喜んだことであったろう。

しかし、私は両親に云うこともなく、彼女からのご招待に応えることもできなかった。


ある記憶がよみがえった。

大学受験時代、私が投書コンテストで選ばれてラジオ深夜放送の番組に出演したときのことだった。
とても優しい女性パーソナリティからの、ふつうであれば挨拶代りのような軽い質問が私をひどく狼狽させ、以来そのことが私を臆病にさせていたのだ。

もしお付き合いが順調に進んだあとで、そのことで自分が傷ついたうえに、さらに彼女を失うようなことになったら・・・。それならばこのまま傷つかずに彼女を失う方がよいのか・・・。

果たして私の悩みは杞憂に過ぎず、私が過度に臆病なのか・・・・

こころのなかの葛藤が続いた。

本当は・・・ほんとうに・・・毎日だって伺いたかった・・・少年だったあのころの日のように。
転校してきたその日から気になっていたひとなのだ・・・あのときだって、見知らぬクラスで不安な気持ちで一杯だったであろう彼女に声をかけてあげたい、と思っていたのだから。


彼女に返事の手紙を書くことができないまま、時間だけが徒に過ぎ去っていった・・・。



ああ!・・いまもし「Mっちゃん」にお会いすることができたならば・・・・
あのときのことを・・・・あのときのことを・・・・一体、何と話せばよいのだろう。

突然、音信を絶ってしまった私を許してくれるだろうか。
彼女の好意に報いるどころか、彼女とご家族を酷く傷つけてしまったに違いない。

傷つくのは私の方のはずだった。
私が勇気を持って、もっとおおらかにぶつかればよかった・・・。
幼い頃から女子の家に遊びに行くのは日常茶飯だったではないか・・・。
それはこの日のためではなかったのか・・・。


けれども、わたしの苦悩、心の葛藤を知る由もない彼女・・・。

むかし、中学校の教室でふたりのお尻とお尻がぶつかったときのように・・・
「何かあったかしら?」・・・。

彼女は・・・彼女は・・・この私のことだって、遥かとうの昔に忘れ去ってしまっていることだろう。



今ではもう・・・あれからずいぶんと時が流れた。
少々の雨など物ともしなかった、豊かで強かった私の黒髪にもいつしか初秋の霜が舞い降りた・・・・・・。



レモンイエローと百合の純白。

決して忘れることのない鮮やかなフレッシュオレンジ・・・。

思春期だった私の大切な「3つの恋」のいろ・・・。

幼く、若かったあのころの日々、私の思春期のキャンバスを、まるでルノワールの絵画のように、豊穣にゆらめく色彩で彩ってくれた。 


「レモンの少女」の友だち選びは慎重だったが、その彼女が小学校で仲の良かった女子といえば、私が幼い時期に双子のきょうだいのように過ごした「ルノワールの少女」。
中学校では・・・私が車中で偶然に見かけて以来忘れられないでいた「幻の少女」だった・・・。

小学校入学以来、3年間同級だった愛らしかった「ルノワールの少女」は、「レモンの少女」と出会った5年生のときに再び同級に。そのキリッと酸っぱい「レモンの少女」は、中学では白百合のような「幻の少女」とともに・・・。

まるで、み仏の手のひらに呼び寄せられたかのように、狭い関係のなかで出会いと別れの運命の糸が交錯し結びかけては、幻のように解けていった・・・。


そして、屈託のない笑顔で一人の少女が転校してきた日から、ゆっくりと紡ぎ始めたオレンジ色の糸・・・。

「さあ!もう少しですよ、今度は離さないようにしっかりと結ぶのですよ!」

愛の女神がほほ笑んでいた・・・。



上野 恩賜の園 
動物たちの憩えるところ

静やかな 不忍の池水
寛永寺 悠久の森

幼き日 父 母と
かの地を訪いし少年

やがて 青年となり
美しい人と再会う

ぎこちなくも 純粋な
若い生命の めぐり逢い  

青年は再訪れた
少年の日の想いを胸に


そこに おわします神々
広大なる あなたの世界

とどめてほしい 
歳月過ぎ去るとも

あのひとの息吹 
あの日の面影 


聖なる森の深奥
木漏れ陽射す水底

小さき 碑(いしぶみ)
記された名

ふたりだけの出席簿
ふたりだけのクラス
 

あの日 ふるえる手をかさね
そっと 水に沈めた・・・

広がる波紋
木々の葉が ざわめく

夕映えの岸辺
絶えることなく 寄する小波


 

(付記)

  折りしもあの頃に読んだ、思春期の若者のバイブルともいうべき「ゲーテの恋
  ~ 若きウェルテルの悩み」が上映されている。

  中学三年、三人の女子同級生への思いに悩み、「オレンジへの恋」が生まれた
  想い出の昭和38年から39年。

  東京オリンピックが開催されたこの39年を背景に、映画「3丁目の夕日」三作目
  の製作が始まったという。

  いずれの日にか、この映画を観たならば、懐かしさの海、思い出の森、かけがえの
  ない愛しい日々を想い、きっと私は涙をこらえることができない・・・。


 

(姉妹編のお知らせ「小説3つのオレンジへの恋」)

    13/1/7   「中学生になった!」

    13//1/17 「中学時代 プロローグ ~ 一輪の白百合」   

    13/4/10  「中学時代 クラス替え前夜」
                                           
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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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