2012/08/01(水)12:18
孫の男の子が通う幼稚園の行事、盆踊り大会を見に行った。
幼いころ私の息子が着ていた浴衣と帯を涼しげに身につけ、鉢巻までして、会場の公園で楽しそうに踊っていました。

男も女も、どの子も明るく元気に先生と一緒に輪になって踊っていました。
ふと、このなかから将来イジメる子が出てきてしまうのだろうかという思いが過るが、先生にも親にも、本人たちにもそんなことはないよう祈りたい気持ち。


さすがにもう、つい昨日のようだとはいえませんが、園児たちを見ていると57年前の自分を思い出します。

私は、世田谷区にあるお寺が経営する幼稚園に1年間通った。
子供の足で40分はかかる道、最初だけ母が一緒に来てくれたがあとは一人で歩いて通った。

途中には俳優の佐野周二さんのお宅があり、母はたまにご本人や奥様、まだこどもだった息子さんの関口宏さんの小さな姿を見かけたと言っていた。
私も、少し離れたところから二人をお見かけしたことがある。

佐野さんは往年の2枚目スターだが、私の世代はテレビドラマの父親役で拝見させていただくまで、活躍ぶりを知らなかった。

関口宏さんは、私よりも6歳上だそうで、ほぼ同世代で時代が進行してゆきました。
長年続く日曜のテレビ番組でいい持ち味を出されていると、毎回感心してしまう。


私は内気でおとなしい子でしたが、母から幼稚園では先生に挨拶するように言われ、毎朝、庭に出ている先生全員に、教室の中の先生にもおはようございますと挨拶して回りました。
毎日だから結構大変な思いでした。

母もまさか私が毎朝先生全員に挨拶して回るとは思っていなかったのでしたが、私は幼な心にいまさら途中でやめられないとの思いで、最後まで続けました。

人一倍優しい母は、人百倍も千倍も生真面目で学校を休むのが嫌いでした。
私は、熱があってだるくて休みたい日でも、一寸くらいの熱なんか幼稚園に行けば直るからと、家から出されて幼稚園に行かされました。

帰るときには何とか大丈夫でしたが、学校を休まないということに関して、母は珍しくスパルタでした。

台風や嵐の日でも風雨のなかを40分以上歩いて行きましたが、着いたら休園で、今来た道をすぐに戻ったこともありました。

結局、幼稚園は皆勤賞でしたが、小さな表彰状くらいでは報われない、やれやれという思いでした。

幼稚園の学芸会で一休さんの小坊主を数人のグループで演じたが、内気だった私は、舞台に出るのが恥ずかしくていやだった。
後年、高校の学園祭で二年間もクラスの演劇舞台に出たとは、我ながら驚く。

幼稚園のとき、冬には、朝、スチームのそばに置いておいて温めて食べた母のお弁当には限りない思い出。
卵焼きや焼いたタラコが入った100%手作りの、素朴で「豪華」なお弁当。

寒い冬の朝、パン屋さんの女店員が温まっていきなさいと優しくコタツに入れてくれた。
気持ちはとてもうれしかったが、やはり恥ずかしくていつも落ち着かなかった。
クリームパンやアンドーナツ、ウグイスパン等々どれもご馳走だった。


その後、小学校に入った私はさすがに皆勤賞はなくなりました。
体調が悪いときには学校を休んで、母と一緒に、当時チョコレート色の総武線に乗って、飯田橋にある父の勤める官庁系列の病院に向かいました。

今でも、たまに総武線に乗って、飯田橋駅付近の濠端や、高い土手のカーブの続く線路を電車が通過するとき、ある思いが去来します。

通勤時間帯が過ぎて乗客が少ない車両の中、電車の動きに合わせて意思を持つかのように
一斉に大きく揺れ動いては止まる、長めのつり革とプラスティック製の白い輪。
つり革につかまるひとがいないので、取り付けられているバーとの軽い摩擦音が生じては、瞬時静まる。

小波のように繰り返されるその音は、これから病院に向かう不安な気持ちを掻き立てる。
母と一緒にいる絶対の安心感の気持ちが交錯した。

よく揺れて、いかにも一生懸命走っているぞという、あのときの総武線直通の中央線緩行。
ちょっと長いが、「この電車は・・・・」と、車内放送でそう言っていたと思う。
山手線よりも旧式だったその車体に響く動力音と、木の床に塗られたワックス油のツンと強い匂いが甦る。

やはり、あれはそう遠い昔のことではないような気がする。


最近三人になった孫たちにも、ゆっくりと、それぞれの人生が始まった。


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プロフィール

早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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