2015/08/14(金)17:54
世田谷区に用事があったので、久々に少し足を伸ばし、母なる多聞小学校を訪ねてみました。

HPを見ていたので、母校が全面的な改築工事に入ったことは知っていましたが、隣接して、同じ名前の幼稚園ができていたとは知らなかった!

いざ訪れてみると、工事の囲いに覆われた正門前は、思い出の手がかりも何もありませんでした。それでも校庭の南側、敷地いっぱいに建つ(仮設?)校舎に窓がならぶ風景に、往時の面影を見ることができました。

校舎沿いのその道を歩いて数分のところに、私の住んでいた官舎がありました。海抜30メートルの丘の上の小学校よりも少し高く、眺望に恵まれ、記憶違いでなければ遠くに多摩川の花火も見えていた天守閣のような場所でした。

昭和30年代前半、高層マンションなどまだなかった時代のこと、遥か地平線のようにも見えた南方向246号線沿いに、そのころは短期大学だった昭和女子大の校舎を望み、手前には「山本オブラート」工場の煙突がそびえ、西に目を転ずれば三宿神社の緑の森。
幼い日からその名に親しんでいた昭和女子大には、後に、わすれられない思い出のひとが行くことになった・・・。

半ドンの日の土曜など、今も流れているNHKラジオ「昼のいこい」開始のテーマ曲を家で聴くことができたほど、小学校は近い距離にあり、風向きによっては小学校のチャイムの音が聞こえてきました。
チャイムに変わる前は単調なベルの音であったので、メロディをもったチャイムはずいぶんおしゃれな音に聞こえました。メロディの音程の捉え方が母と私で異なり、「違うよこうだよ」と、よく言いあったことも今は遠いむかし。

春先にはひばりが囀り、上空にトンビが舞う、目の前の広大な低地でしたが、数年後には大規模団地にすがたを変え、見晴らしの良かった眺望は奪われてしまいました。
やがて家族は、私が高校2年の一学期に、思い出多いその地を引っ越しました。

久々に訪れたこの日、木造家屋9軒が並んでいた官舎は、3階建ての集合住宅に変わっていました。
人気テレビ番組だった「私の秘密」に出られるね」と、母とわたしとでいつも言っていた、「忠臣蔵」で因縁の二人が隣接していた吉良さんと浅野さん(それぞれルーツは不明)も、名優田村高広さんのお宅も名前が変わっていて、いよいよ時の流れを感じました。


そんな折、昨夜の「ラジオ深夜便」で古関裕而特集があり、伊藤久男の歌う「栄冠は君に輝く」と「イヨマンテの夜」が流れました。

伊藤さんが、オペラ歌手のような歌唱力で歌う「栄冠は・・・」の重量感には驚かされました。続く「イヨマンテ」は、私が幼い日々にはラジオからよく流れており、テレビの時代になったときにお顔を拝見すると目元が、父の妹である私の叔母に似ているように思いました。
結婚して赤穂にいた叔母がたまに上京して立ち寄った際に、私がそのことを言うと、決して美男とはいえない歌手に似ているといわれて少々迷惑気味の顔をしましたが、自分でも認めていたようでした。

難曲であるにもかかわらず「イヨマンテ」は、「NHKのど自慢大会」の素人出演者がよく歌い、ときにはほかの歌手もカバーしていますが、伊藤久男さんの細部に至るまでスキのない熱唱は他の追随を許しません。


一方、続いて流れた古関メロディの「高原列車はゆく」は、音楽の教科書にも登場したほどの愛唱歌でした。

伊藤久男さん同様、当時、ラジオから岡本敦朗さんの朗々たる美声を聴いていました。やがてテレビの画面で、学者のような眼鏡をかけた長いお顔を初めて拝見した私は、同居していた二人の叔母と顔を見合わせ、思わず笑ってしまいました。
誠実な風貌なのですが、ラジオの音声とのギャップがあまりにも大きかったのでした。


小学校の周辺も、私が住んだ官舎の周辺も大きく変わっていました。
小さな丘を下ったところに、もしや、新入学した中学で同級生になり、帰りに誘ってくれた少女のお宅はまだあるだろうか、あってほしいと願いながら足を運びました。

小学生の頃、私が買い物に行く際に見かけた、別の小学校の美しい少女で、ときには彼女と視線があうこともありました。
私は、小学校の高学年になってからは、何だかめんどうで女子と一緒に遊んだり下校することはありませんでしたが、彼女からの誘いに、そうか、いよいよ中学生になったのだなあという感慨にふけったものでした。男女交際、ガールフレンド・・・早春の世界が広がっていました。

商店を営んでいたそのお宅の場所には、構えは新らしいがまだそれらしきお店が・・・。
胸を弾ませて店の前に立ちましたが、その看板に書かれた名前は違うものになっていました。

夜でも往診に駆けつけ、見るのも怖かった、太いペニシリン注射を打ってくれた、人当たりの良いホームドクターの医院にも違う表札の住宅が。

ガッカリしながら近くのパン屋さんに向かうと、古びてはいるが、青い壁面に漢字で大きく店の名前が書かれた、小さなビルはまだ残っていました。しかし、そこには人が住んでいる形跡はありませんでした。

日曜日、今日はパン食だというと、私と姉とでそのパン屋さんに自家製の食パンを買いに行ったものでした。出来立ての食パンを最初の頃はガスコンロで焼いていたが、やがてトースターが登場し、ときには真っ黒く焦がしたパンに雪印や明治、森永のバターをたっぷり塗った。そこに蜂蜜を塗ると最高のごちそうでした。イチゴやマーマレード、ピーナツのジャムも・・・こんなにおいしいものがほかにあるだろうかと思いました。

急須に日東紅茶の茶葉を入れ、砂糖を入れて何杯もお代わりした・・・父母と姉と弟、二人の叔母たち・・・学校や仕事が休みの日曜日には、楽しい親子家族のだんらんがありました・・・。

懐かしの地で、私の幼い日々の記憶、思い出が、つかみかけては指先から零れ落ちてゆきました。
やがて小学校から、奇跡のような出逢いの中学校へとつながってゆく淡い憧れの系譜・・・この日、近くにあった中学校には、時間の都合で立ち寄ることができず残念でした。

あのころ、辺り一帯にはまだまだ自然がのこされており、田村高広邸の一角は原っぱで子どものよい遊び場だったし、お隣の池尻にあるのに、なぜか「三宿田んぼ」と呼ばれていた、トンボが群舞する立派な田んぼもありました。

官舎や公務員住宅、企業の社宅が多かった地区でした。
私が小学校に上がる前から双子のきょうだいのように毎日のように遊び、ときには泊めていただいたりもした、愛らしい女の子の住んでいた銀行の社宅ももうありません。

少年時代には、伊藤久男さんも岡本敦朗さんもずいぶん大人であると思ったものでした。
心の奥では認めたくはないのですが、少年は老い易く、気がつけばあの日の伊藤さんや岡本さん以上に、私ももう十分に大人になっているのです。



(後記)
   多聞小校歌の作曲者は中田喜直さんです。
   我々の在校中にはとくに意識したことはなく、話題にもならなかったと思います。
   私も数年前に、偶々卒業アルバムを見ていて気が付きました。
   
   有名作曲家ですから、全国の学校校歌を多数作曲しているうちの一曲ですが、
   それでも「夏の思い出」や「雪の降るまちを」の作曲者がと思うと、嬉しい限りです。

   中田喜直さんは、晩年、熱心に禁煙活動を続けてこられたそうです。
   今年は「タバコ問題情報センター」(代表理事渡辺文学さん)が設立30周年を迎え、
   また喜直さんの没後15年にもあたるそうなのです。
   
   渡辺さんは、11月にイベントを企画されているとのことで、
   「禁煙活動」、そして「校歌」と大好きな「曲」で「お世話」になっった
   中田喜直さんの会には是非参加しようと思っています。

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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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