2016/03/01(火)17:37

あるとき、早稲田大学教育学部の教室で、学生たちが「3つのオレンジへの恋」の店内風景を寸劇で再現しました。
教師を目指す学生たちが、将来、小学校や中学校の授業で生徒たちに街のお店を取材させて、その様子を自ら演じ発表させるための演習で、私たち夫婦も参観させていただくことができました。

男女9名からなる先生のたまごたちは、熱心な取材の成果とチームワークによって見事な発表を行いました。
(何だか似ている!)
学生たちが上手に演じた「自分たち」を見ることは、録音された自分の声や映像に接するのとも違った、これまで味わったことのない何とも言いようのない気持ちになることがわかりました。


昭和37年、私は、多聞小学校のお隣といってよい世田谷区立富士中学に進学しました。
ある日、中学の体育の授業で校庭にいたところ、正門の方から一人の男性がやってきて私の近くを通りかかりました。

「おう!」
「わあ!」
顔を見合わせると二人で思わず声をあげました。小学校の後半3年間を受け持っていただいた佐怒賀正雄先生でした。

初夏の頃であったか、先生は、たしか開襟シャツかYシャツ姿で大型の封筒を手にしてやってこられて、中学生になった私を見かけて、懐かしそうなお顔をされ目を細めてくださったことを今でも覚えています。

校庭での佐怒賀先生との思い出といえば、小学校5~6年のころ、体育でソフトボールをしていたときのことも━━私は「大毎オリオンズ」の山内和弘選手が好きで、同じレフトを守っていました━━親友M君が放った大きな外野フライが飛んできて、ライン際を右の方へとそれてゆきました。私はゆっくりと飛球をおいかけてゆき、校舎の際でおもむろに逆シングルのグローブを差し出すと、ボールがすっぽりと収まったのです。測ったように完璧な守備でした。

「ウワー!」と一斉に歓声が湧き、スリーアウトになって私が引き上げてくると、ご覧になっていた佐怒賀先生が「プロの選手みたいだな」と、相好を崩してほめてくれたのです。友人たちも「凄いな」と称えてくれ、ちょっとした英雄でした。私は、近所のこどもたちとキャッチボールや「草野球」はよくやっていたのですが、元来運動はあまり得意な方ではなく、このファインプレーはまぐれみたいなものでした。このときの何とも照れくさい気持ちもまた忘れられずにいます。

それは、たまたま「授業中の校庭」での一瞬の出会い出来事でしたが、私は出会いや出来事についても、いつも何か「意味」や「不思議さ」を感じるのです。


小学校4年のときのクラス替えで佐怒賀先生のクラスになってから、廊下などで見かけるようになったひとりの女子は目が生き生きとして、いかにも活発で聡明そうな顔だちで、いつも女子と何やら楽しそうに話しながら賑やかにすれ違ってゆくのでした。

「どこのクラスの誰だろう?」

なかなか手がかりはなかったが、友人のM君が好きだった他クラスの女子が彼女と同級であったことがわかり、彼からの情報で、彼女は外交官の娘であること、そしてその名前を知ることができました。名前を知れただけで私にはじゅうぶんでした。まだ人生の入り口にさしかかったばかりでしたが、私が初めて接したそのフルネームは、映画『ウエストサイド物語』の中で歌われる『マリア』のように、私には美しく響きました。

そして中学に進学した私は、1年のときに『マリア』と同じクラスになったのでした・・・運命はときどき私に味方をしてくれることがありました。

しかし、運命の女神は気まぐれでもある。
せっかく一緒になれはしたものの、2年進級時にはクラス替えを控えていました。
こんなクラスはほかにはないと思うが、私が言いだして、中一の学年末にクラスの記念文集を作ることになりました。別れてしまうかもしれない彼女とのクラスの思い出・記念にしたかったのです。

小学校では違うクラスで、名も知らなかった女子・・・帰国早々のときには「漢字の書き取りが苦手だった」彼女が編集委員を志願してくれたとき、私は夢のような気がした。彼女との1年間は一学期目こそ接点がなかったものの、やがていっしょにクラスの委員を務めたりして、親しく話すようになってからは毎日教室で会えることが嬉しかった。学年末が迫ってからは、クラスが変わるかもしれないという寂しさのなか、編集作業で放課後や、ときには休みの日にも会えたことは大きな喜びでした。

私の「職権」で『暁』と命名した文集は、編集委員がそれぞれ分担して装丁を施し製本したので数種類の「版」が出来ました。そのなかで、彼女が作成したものはきっちりと和綴じされ、書店に並べてもおかしくないほどの立派な「書籍」になっていました。

━━やがて春が来てクラスが変わり、廊下で顔を見かけなくなったと思っていたら、彼女は海外に転校していったと聞かされた━━。
彼女・・・もしかするとお母さん?の手によって、達筆な毛筆で表紙に大きく「暁」と描かれた文集を自分のものにしなかったことを、私は少し後悔している。


小学校では、4年進級時の大きなクラス替えで、鴻巣静代先生が私たちの学年から離れることがわかってガッカリしたものです。しかし、鴻巣先生が引き続き学年を担当されても、自分が別のクラスになってしまったらもっとガッカリしたに違いありません。

今度もできればやさしい女の先生がいいと思っていました。しかしながら新しい担任は、同級生の男子が「おやじさん」と、こっそりニックネームをつけた男の先生でした。初対面の日、先生は重量感のあるご自分のフルネームをきっちりと黒板に書かれて、新しいクラスがスタートしました。

美術の時間に先生の顔を描くことになった。
佐野周二さんのようでもあった?、いや、もう少し似た俳優がいたような気がする・・・つい最近BS映画で『彼岸花』という往年の小津作品を放送していた・・・そうだ!重厚な佐怒賀先生の顔は俳優佐分利 信に似ていると思ったことがある。次に放送された『秋日和』を見ていてますますその思いを強くし、懐かしくてたまらなくなった・・・画面の中にあの頃の先生がいらした!・・・そんな先生の顔を、それぞれが思い思いに描いた。

描き始める前に、先生はみなに先生の顔の特徴を言わせ、自ら黒板に記していくと、時々教室内には笑い声が。
ポマードをつけた毛髪、ホームベース型のお顔で、眉毛もお顔のつくりも濃い先生は・・・今の自分よりもずいぶんお若かかったのだが・・・あの頃の我々から見ると、申し訳ないが、たしかに「オヤジさん」というニックネームがぴったりでした。

生徒が描いた先生の顔には、タバコのヤニで黄色くなった歯があったような気がします。
記憶が間違っていなければ、佐怒賀先生はヘビースモーカーで、教壇の机にはアルミ製の灰皿が置いてはなかっただろうか?。タバコの銘柄はたしか「いこい」であった?、さすがに授業中には吸わなかったと思うが、生徒の教室清掃では灰皿の吸い殻を片付けるのが当たり前のようだった気がするが、さて如何であったか。



先生は私が心配していた厳しいひとではなく、ふだんは「慈父」のようでした。
鴻巣先生のように、もう本を読んで聞かせてくれることはないと思っていたが、佐怒賀先生もときどき読んでくださいました。

初めてアメリカの奴隷の世界を知ることになった『アンクルトムの小屋』・・・これは鴻巣先生だったろうか・・・覚えているのは鴻巣先生による『ロビンソン・クルーソー物語』『十五少年漂流記』に続いて、佐怒賀先生が『トムソーヤの冒険』と『ハックルベリーの冒険』を読んでくださったことです。少しづつ成長してゆくわれわれに合わせてくれているようでした。

私も近所の大きな木に登っては「秘密基地」気分を味わい、近くの原っぱで小枝や雑草や板切れを集めて「隠れ家」を作り、落とし穴を掘ったりして遊んだものでした。木の幹や枝葉で隠された「基地」は見晴らしがよくて気分がよいが、「隠れ家」の方は隙間から日が漏れてくるものの中は薄暗くて、ちょっと怖いような空間でした。ドアも屋根もついた隠れ家でしたが、翌朝何者かによって破壊されていたのを目にしたときにはさすがにみんな落ち込んで、二度と作ることはありませんでした。


佐怒賀先生がとくに勧められていたのが、坪田譲治の『善太と三平』や『風の中のlこども』で、私も、男の子の兄弟を描いて、悲しい部分もあったこの物語が好きで、早速、家で買ってもらったものでした。新潮文庫であったろうか、ホコリをかぶり紙の色も変わってしまったこの本は、書棚のどこかにまだしまってあるはずです。

先生は『毎日こども新聞』や、ときどき授業で引用されていた『少年朝日年鑑』も薦められ、私はどちらも購読、購入しました。「こども新聞」を手にしたときには、少し大人になったようでとてもうれしかったものですが、読むのが追いつかずにたまってゆくばかりで中止、「年鑑」も読みこなすことはできないままに終わってしまいました。


あのころ、よかったと思うことのひとつに、佐怒賀先生の社会科の授業で日本の歴史を学べたことがあります。とくに「真珠湾」、「ABCD包囲網」など、太平洋戦争の開戦から敗戦、国際連合、東西冷戦に至るまで近代史について最低限の知識を学ぶことができました。

私たちは先生の授業やニュースなどを通じて、こどもなりに国際情勢や政治の一端に接していました。ソ連のフルシチョフ書記長とケネディ大統領の歴史的な会談が「フ・ケ階段」と報じられたとき、頭の「フケ」みたいできたないねとM君と笑い合いました。庶民的人気が高かった社会党の浅沼委員長が、日比谷公会堂で演説中に刺殺された衝撃的なニュースは、M君の家で遊んでいるときに飛び込んできたもので、テレビで見た映像はとても現実とは思えず、二人とも言葉を失なってしまいました。


昨今の歴史の授業は選択制であったり、授業はなぜか明治時代で終わってしまい、アメリカとの戦い(日本の敗戦)を知らない若者が大勢いるそうで、歴史、とくに近現代を教えようとしない現行の教育には大いに疑問があります。

私は個人的なテーマとして、日本が開戦に追い込まれた経緯(欧米がとった厳しい対日姿勢と過酷な植民地政策)、日本全土にわたって執拗に行われ、鴻巣先生が大切な思い出の家や品を焼失させた全国都市部への無差別大空襲、就中、瀕死の日本に2度も行った原爆投下、終戦間際のソ連の参戦と北方領土、極東裁判・・・・昨年、法廷の場となった防衛省の市ヶ谷記念館を見学した際にはとても言い尽くせない思いがした・・・・そして戦後からの世界情勢を、自分が納得するまで徹底的に分析・研究してみたいと思うのです。太平洋戦争で日本と戦い、ベトナム戦争やイラク戦争を仕掛けたアメリカは、「人民の味方面」した共産中国、ソ連・ロシアとともに最重要研究対象国です。

帝国主義の欧米各国と、「ソ連」や「中国」の共産主義国の世界戦略や支配欲と思惑とが、複合的・重層的に想像を絶するほどの広がりを見せ、絡まり合って、こんがらかっていることでしょう。新たな資料も続々公開発見されているようで、興味は尽きません。

それは、近年の史上まれに見る世界中の大混乱にもつながった、「自由の国」アメリカとヨーロッパ各国がとった行動、もはや隠しようもない国際法無視・唯我独尊・人権蹂躙・民族弾圧・浄化(恐ろしい言葉です)・徹底的な情報統制・宗教・自由圧殺の一党独裁大国中国、ソ連消滅後もなお脅威であるロシアの行動、朝鮮半島問題を、徹底的に検証することです。もし私の学生時代に問題意識があったならば、この研究に没頭したかった・・・。

そこのけそこのけ「唯物史観」が通る・・・あの時代はマルクス・レーニン主義にあらずんば主流にあらずといった感があって、経済、歴史、思想、メディア、芸術にいたるまで各界を席捲していた。私は、歴史教科書に出てくる各時代の名著は極力読むようにしており、マルクスの『共産党宣言』にも感激した記憶はあるが、共産主義各国の現実は、昔も今もまったく受け入れることができなかった。

冷戦時代には、今日に至る根深さをもつ諸問題の多くは露見していなかったが、ヒトラーを生み出した第1次大戦後と第2次大戦後の、それぞれの戦勝国による戦後処理・世界支配に今日の混乱の原因があると思っている。

国際連盟の欠陥を反省して、「戦勝国」によってつくられた国際連合。
固定化された国際連合常任理事国である中露について・・・小学生の時に感じた疑問は変わらないどころか増幅している。旧ソ連は崩壊分裂したが,今なお大きな問題をはらんでいる。台湾出身の金美玲さんは、大きすぎる中国もまた民族ごとに5つに分かれたらよい(べきだ)と提言している。けだし至言である。

東西冷戦中やベトナム戦争当時には、中国にとって最大の敵国は「打倒米帝」、資本主義大国のアメリカであったが、冷戦終了後は巧妙な舵取りでアメリカを直接の敵とすることをやめた。一方で、国交回復後、反省と善意の日本からは資本と技術を得るだけ得た後に、今度は何かと戦時中の日本を引き合いに出して攻撃を開始し始めた。自国の独裁体制維持のためには国外に「悪者」が必要であることから、「握手」をしながら、永遠に日本の頭を踏みつけておきたいのだろう。「動くゴール」・・・同じようにもう一つの国についても対応が実に難しい。

残念なことに「同盟国」であったが、日本とナチスとは決して同じではない。あまりにも分かり易いナチスの猛毒・図式・・・何が何でも同じであると、日本の行動のすべてをナチスに結びつけたがる輩・・・この点についても徹底的に研究したいものだ。

日本は戦争に対して大いなる反省をしてきたと思うが、近年ますますエスカレートする中・露・北朝鮮の横暴があり、日本を貶めるための「歴史」が歪曲・ねつ造・喧伝されているのに、「世の知識人」たちが何の疑問も抱かないことに、あの日の少年は大いに戸惑っている。言うべきを言わなかった日本の政治姿勢・外交姿勢が甘かった。

私はもちろん戦争は避けるべきだと思うが、あの時代、もし日本がドイツ・イタリアとの三国同盟に与せず英米側陣営についていたら、その場合でも日本は英米仏の敵対国のどこかと戦争をしていたのではないだろうか。もし日本と戦っていなければ、「中国・中共」は長年にわたって過酷な植民地支配を強いられていた欧米列強と戦っていたはずだ。その場合、「欧米連合」の日本はやはり「中国」と戦っただろうか。歴史のあやは複雑である。

その中国は冷戦終結後の世界中の養分をたっぷりと吸い取って、今では広大な太平洋の半分とシナ海は自分のものだと公言してはばからない・・・何のことはない、「第二次大戦後の世界秩序」とは、西洋諸国の目の行き届かないアジアに、こんな「二十一世紀の怪物」と最悪の「弟国」とを育て、作ってきた程度のものだ(怒)。

スイスのように永世中立国になれば別だが・・・それでも軍隊は保有している・・・アジアを見くびり、侵略して植民地にしようと牙をむいていた欧米列強帝国主義を前にして、日本の進路はそう簡単なものではなかった。ますます近代史を検証してみたくなるばかりだ。それにしても、旧宗主国を始めとするヨーロッパ各国は、中国の国内外での暴挙に対してなぜ声を発しないのだろうか。アメリカも動きは鈍いと思うが・・・・。


佐怒賀先生は穏やかな方であったと思いましたが、卒業文集の中で女子が書いたエピソードによれば、怒るとキーキー甲高い声をあげるのだと・・・私も思い出したような気がします。朗読されたときにもときどき声がひっくり返りました。5~6年生くらいになると私たちも生意気になって、先生の声がひっくり返るのを楽しませていただいたものです。言い間違いや読み間違えたときには「もとい」と言い、「かいつまんで言うと」も口癖だった。

そんな我らの度が過ぎると、教室の後ろや廊下に立たされました。私だけはそんなことはないと思っていましたが、授業中に隣同士で話していたり、宿題をサボったときなどに立たされたことは、生真面目だった母にはとても言えませんでした。私も水を入れたバケツを持たされたことも・・・でも、みんな自分たちが悪かったのだと思っていました。廊下に立たされた時に他クラスの先生や生徒が通りかかると、さすがにバツが悪かったものでした。


「階段事件」は、佐怒賀先生との忘れることのできない出来事でした。
クラスの剽軽者の男子がいて仲良くしていたのですが、彼が私に悪ふざけをするようになり・・・私にはそのように見えたのでした・・・無視したが、だんだんエスカレートしていったために、ある日の教室移動の際、下り階段の前で彼がからんできたとき、ついに私は堪忍袋の尾が切れて、階段の上から彼を突き飛ばしてしまいました。彼はまるでマンガの表現のように両足を空転させて階段を飛んでゆき、踊り場の板壁にぶつかって転倒すると、大きな声をあげて泣き始めました。

私も少しやり過ぎたと思いましたが、怒りが爆発して収まらなかったのでした。
誰かが言いに行ったのか、まだ教室におられた先生がやってきたので、私は言葉少なに経緯を説明しました。

先生は私を厳しく叱りつけることはなく、軽く注意をされて、まだ泣いている彼と私を握手させました。彼は幸いケガもなく、その後は、少し照れくさかったが以前のような関係にもどり、いつしかお互い気にかけることもなくなりました。

低学年のときの鴻巣先生は、毎日誰かによいところがあると皆の前でほめてくれたものでしたが、佐怒賀先生が生徒を褒めたことは滅多にありませんでした。覚えているのは、一人の男子が家計を助けるために早朝の新聞配達をはじめたときのことでした。いつも目立つことのなかった彼のことを紹介して褒め称えたのです。朝寝坊の私にはとてもできないことで、クラスの多くの生徒がそうだったに違いありません。

6年のときには、私にとって悪夢のようなできごともありました。
そのときは、クラスで私が淡い思いを抱いていた女子Nさんと、学校に上がる前からの「小さな恋人」で、愛くるしかった近所のY子ちゃんの献身的な行動と、そして、おそらくは佐怒賀先生の温かなご指導、ご配慮とによって、ほかのみんなの中で私は守られたのだと思っています。

卒業式も迫ってきたある一日、クラスで「かくし芸大会」が行われ、それぞれが腕前を競いました。バイオリンを習っていた女子のN子さんはソロで腕前を披露、I君をはじめいつも皆を笑わせていた男子のグル-プは、どこで練習していたのか、抱腹コントで楽しませてくれた。

6年間の同級生は、公務員住宅や官舎に銀行など大手企業の社宅組が多く、自営業では肉・魚・野菜・惣菜の総合食品店、お蕎麦屋さん、ガラス店、金物屋さん、特定郵便局、映画俳優など、親の職業はありとあらゆる業種にわたっていました・・・鴻巣先生のクラスも佐怒賀先生のクラスも、みんな仲が良く、本当に本当に温かな良いクラスだったので、卒業して別れてしまうのがもったいないくらいでした。

いま、あらためて卒業記念文集を読み返してみると、あの頃の先生方や友人の姿が蘇り、とても新鮮な思いになりました。

私が廊下で見かけるようになった少女Sさんは、やはり(!)4年の時に転校してきたと書いてあり、将来の夢は「外交官」。同級になった中学では、帰国子女だった彼女が英語リーダーの『スタンダード ジャック アンド ベティ』を、可愛らしいが、目をつぶっていてもわかる独特の声で、「外人」のようにスラスラと読んでゆくのをいつもウットリ聞いていたものだが、多聞小に来た直後は漢字の書き取りが苦手だったと、この文集に書いてあった・・・。

穏やかな性格だった「小さな恋人」Y子ちゃんの夢は、「社会人としてつとめたりなんでも出来る主婦」・・・入学前からも,、そして同級となった1年生の時も、まるで小さなお婿さんのように私を可愛がってくれた、Y子ちゃんのお母さんを思い出します。
低学年のころには、学校が終わるとそのままY子ちゃんの家によくあそびに行ったものだが、高学年で再び同級になったY子ちゃんはNさんといっしょに帰って行った。私はもうその中に入ることはできずに一人取り残された・・・。

淡き思いのNさんの夢は「かんごふ」さんでした・・・そうだったのか・・・。
私はといえば、Sさんを意識して外交官と書きたかった気持ちを抑えて・・・もう自分でもすっかり忘れていたのだが「科学者」で、さらに、「困っている人達を助ける運動」と書いてありました。それはきっと鴻巣先生や佐怒賀先生が読んでくださった、日本や世界の偉人物語の影響であったと思います。
そういえば決してはしゃぎ回るタイプではなかったNさんも、佐怒賀先生から注意されて、一度だけ教室の後ろに立たされたことがあったっけ・・・もう、本人だってすっかり忘れているはず・・・そんなNさんも『ナイチンゲール物語』に感動していたのかもしれません、きっと。(了)


(付記)
ことしは、私たちの世代が小学校入学式を迎えてから、ちょうど60年。
戦後ベビーブームで生徒数が多くて教室が足りずに、最初の1年間は遅番・早番の二部授業であった私たちでした。

時は移ろい、今年、私の3人の孫のうち長男坊は3年生,、真ん中の女の子が新1年生となり、次男坊は幼稚園年小組。

このたび多聞小学校では新しい校舎が完成したとのことで、まことに感無量です。

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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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