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2016/11/29(火)17:40
平成28年11月26日、好天に恵まれた土曜日。
世田谷区立の多聞小学校では、新校舎落成の記念式典・祝賀会が盛大に行われました。私は、54年前の一卒業生として出席するという僥倖に恵まれたのです。この日、校長先生のお話では、たしか全卒業生1万名あまり。私は、地元に住んでいる関係者や同窓会の役員以外では、唯一の「一般卒業生」ではなかったかと思います。


この春竣工した、屋上にプールを備えた最新4階建ての校舎やスッキリ広々とした体育館は、向こう七~八十年、いや百年はもつのではと思われるほど堅牢で立派であり、多聞小にとって、まさに世紀の落成式と言っても過言ではないでしょう。私は見学させていただきながら、この快適な校舎でもう一度小学生をやり直したくなりました。

海抜30メートルの三宿の丘、四階建て校舎屋上に出てみると、気持ちがよいほどに四方が見渡せました。あの頃はなかったマンションやビルが目立つが、それでも私が歩き、遊んだ、あの町あの道の面影はそこかしこに残っている。私は遠い日の幻しを重ねていました。

やや遠く三軒茶屋方面には、ランドマークとなっているタワービルが望めます。
私がこどものころ、そのあたりには月賦の「緑屋」と「丸井」の、今であればさほど高くはないが、当時は珍しかったふたつのビルがあり、空の高みには宣伝のアドバルーンが浮かんでいて、遠くからもよく目立っていたものです。

近くには鎮守の森ですぐにそれとわかる三宿神社が。
近道をしようと、神社裏の小さな墓地を通り抜けるときには、お墓で三回転ぶと死ぬという迷信におびえた。絶対転ばないよう全身に力が入り、一度転んでしまった後にはもうすっかり足がすくんでしまい、なんとか通り抜けたあとにはどっと力が抜けたものだ。そこだけ明かりのない、夜の墓地は特に怖かったが、こどもたちが順番に肝試しに行ったこともあった。

夏休みには、初めて買ってもらったタモ・捕虫網を手にして神社に行き、父がセミやトンボ、蝶の採り方を教えてくれた。
父とお祭りに行くと、不衛生だからと、綿菓子以外、屋台の食べ物は買ってくれず物足りなかったが、やがて子どもたちだけで行くようになってからは、食べたかった焼きソバやあんず飴などを口にした。
一人で行ったときに、ヒヨコ可愛さに一羽を買って喜び勇んで帰ったものの、とても飼育できないからと、鶏を飼っている近所の家に預けられた。ヒヨコはすぐに別の生き物のような成鳥に育っていったが、ある日、その姿が見えなくなっていた・・・。

かつての生活圏・行動範囲を屋上の高みから望んだ「初めての景色」に、独りわたしは心が震えるほどの感動を抑えきれませんでした。小春日和だったその日、できることなら、ずっとそこにとどまっていたかった・・・・。


残念ながら一縷の期待は外れ、この日の出席者のなかに顔見知りはいませんでした。

しかし、午前中の式典の間、偶々隣に座った私よりも年配の男性Nさんは燃料店を営まれているとお聞きしたので、もしやN商店さんではとお尋ねすると、やはりそうでした。

ガスストーブはまだ火力が弱く、暖房に炭火のこたつや火鉢も使用していた幼い日、私はその燃料店に炭や練炭を買いに行ったことがありました・・・小学校時代に私が店の前で何度か見かけた、背が高くスラリとした美少女は、私が富士中学校に進学して1年の時に同級になりました。Nさんは彼女の義理のおじさんにあたることがわかりました。
彼女は多聞ではなく代沢小だったそうで、Nさんのところに住んでいたのです。中学で同級になってから、彼女から声をかけられて、緊張しながら一緒に帰った早春の日もあったのです・・・。

祝賀会場で、Nさんやほかの卒業生と話していると、低学年のときにお嬢さんが私と同級だった淡島郵便局、そして地元の「有名会社」だった山本オブラート、小学校前の測機舎、太いペニシリン注射が恐ろしかった椎原医院など懐かしい名前もたくさんあがりました。

この日の卒業生たちにまたお目にかかることがあったならば、やはり小学校で同級だった猿渡蕎麦店や山口硝子店・・・廣川酒店の娘さんは学年が下だったが、なぜかお店の子は女子が多かった・・・男子では食品市場の明るかった秋山くんがいた・・・懐かしの「お店屋さん」について話しをしてみよう。

私が中心になって、たしか二回ほど小学校のクラス会を開いたと思います。
小学校卒業後、まだそれほど年月はたっていなかったと思うが、女子のTさんがおしゃれなメイクをして大人っぽく現れたときには、みんな暫くのあいだそれが誰だかわからなかったことが懐かしい。大切なクラス会だったのに、まだ若かった自分の至らなさからの苦い反省もチョッピリ。


さらに、高校生になってから一度だけ開いた富士中学クラス会の際に立ち寄った、お菓子の「亀屋」。
おじさんは、幼年時代の私を覚えていて、親戚の子であるかのように喜ぶと、おばさんにもそのことを伝えていました。幼い日にはかけていなかった眼鏡顔になっていても、成長した私を覚えていてくれた嬉しさと、照れくさくかった記憶が残っています。
小・中学校のクラス会は、私が少し頑張ればそれぞれ「分科会」くらいは続いたのかもしれないが、社会に出ると会社生活で精一杯で、思いとはうらはらになってしまったことは、今となってはまことに大変に残念なことでした。


椎原医院の隣にあったもう一つのお菓子屋さんには、当時一緒に住んでいた父の妹二人が好きだった「英字ビスケット」をよく買いに行ったものだ。食品の小林、パンの藤屋、和田薬局、淡島の川上パン店と大村そば屋、よく紅梅キャラメルやラムネを買ったオバさんのいる2軒の駄菓子屋・・・そのうちの1軒はたしか「高橋」だった・・・幼い日の思い出は尽きないお店屋さん。
銭湯もあった商店街のあのころのマップを再現してみたいものだ。そこから少し離れるが、文房具や模型の一貫堂のおじさん・おばさんも懐かしい。


この日、言葉を交わした卒業生の一人に、私と「同じ姓」の区議会議員がおられました。富士中学の前の淡島通りで酒店を営んでおられる方でした。稀に多聞小を訪ずれたときなど、近くの、懐かしい富士中の姿もひと目見ようと立ち寄ると、私と「同名」のこの酒店の大きな看板が気になったものでしたが、お会いして、読み方が違うことが分かりました。


小学校時代から中学にかけ、ともだちと遊び回った池尻・三軒茶屋・太子堂・代田・代沢・下北沢・駒場あたりは、地元の三宿や多聞小・富士中と一体となって、私にとって大切な故郷です。

祝賀会では多聞小の山村校長先生や、たまたま私が所属していた美術部を見ておられるという、気さくな野呂先生とも親しくお話ができました。合間には生徒の器楽演奏や合唱、粋な女性陣による北沢の太鼓や男性ソロ歌手の熱唱などが披露された盛りだくさんの内容て、多くの方と言葉を交わすこともでき、充実した嬉しい一日となりました。

お二人の先生には、私の「多聞小への愛」を綴った「小学校卒業記念文集から」と題したブログ五部作のお話もさせていただきましたが、半世紀以上も前の小学校のことを、是非現役の先生方に見ていただければと思っています。

校舎を見学させていただいた際に、「昔のスナップアルバムコーナー」があったので期待しましたが、おそらく学校史上一番生徒数が多かったと思われる、我々戦後ベビーブームの世代は抜け落ちていました。年度ごとの卒業記念アルバムや記念文集の保存体制はどのようなっているのだろうか。


この落成式に先立つ勤労感謝祝日の日、秩父宮ラグビー場で行われた伝統の早慶戦を伝えるアナウンサーが、慶応大の一人の選手の名を告げた。その瞬間ハッとしたが、まさかと思った。
画面に表示された姓・名前は、小学校に続いて中学でも、組替え後に同級になったおしゃまだった女子と同じだった!。大人しかった(!?)私が、唯一、彼女のランドセルにあるいたずらをした女子・・・すぐに気分は懐かしさで満たされた・・・・同じ字を書いて違う読み方をする某大企業のトップがおられたが、私の70年近い人生で彼女以外にその呼び方をする姓を見たのは初めてのことだった・・・・私の心は「多聞」に飛んでゆき、早慶戦ラグビー史上最高と思われるこの日の熱戦すらも「私の落成式典序曲」となり、いやがうえにも小学校時代への郷愁を掻き立てられたものです。


そして「私の式典」の余韻まだ冷めやらぬ28日の夜、目が覚めたところで聴いていた「ラジオ深夜便」の2時台には、私が多聞小を卒業して富士中に進んだ年、1962年に流行ったポピュラー音楽が放送されていた。そのうちの1曲が「ジョニー エンジェル」だった・・・。

4年の時に多聞に転校してきた、活発でキラキラと輝いていた女子は小学校では違うクラスだったが、中学1年の時に同じクラスになった。「硬派」のテレビ映画「アンタッチャブル」を愛した彼女が唯一好きだと言っていた洋楽がこの曲。今の時代では考えられないほどの、少女の純情な恋心を歌ったチャーミングな曲・・・多聞小での落成式のこと、そしてこの曲からただちに蘇る小学校から中学時代にかけて・・・・聴いていて胸が一杯になりました。

「序曲」と「本篇」と、そして深夜のこの「アンコール曲」・・・・時空を超え、多聞小学校と富士中学を舞台に、まるで私の内なる淡い想いを知るかのように、一体誰がこのような筋書き・脚本を用意してくれたのでしょうか。


世田谷区長、教育委員会委員長、区議会副議長、国会・都・区の各議員、小中・幼稚園各校校長先生方・・・気の遠くなりそうな他方面にわたる関係者・来賓を招いての、文字通りの一大行事・・・卒業生である黒田日銀総裁からの祝電には一瞬会場がどよめきました・・・見事に取り仕切られた中村副校長先生、そして陣頭指揮の奥田実行委員長様、大役お疲れ様でした。お招きいただきまして本当にありがとうございました。


神川漁史さん作詞、中田喜直さん作曲の、生徒が歌う校歌「丘の学校」を久々に聴いたが、親しみやすいが研ぎ澄まされた、なかなかに格調が高い校歌だと、あらためて認識いたしました。

♪多聞のこども われら という最終節では、♪こぉどぉ~もぉ⤴ で、こどもたちの声がひきつるようにかすれました。
最後に♪われらぁ⤵ と「返す」が、発声技術がじゅうぶん身についていない小学生には、高音域からの解放感はなく、「われら」で最後まで声を保つのが苦しい・・・そうそう、私たちも歌い終わると (ここちょっと歌い辛くて苦しいよねと) いつも苦笑いしながらお互いの顔を見合ったものだった・・・・来賓の挨拶が続く中、「起立」と「着席」を何度も繰り返す相変わらずの光景もほほえましかった。

会話を交わした先生方も卒業生も、私が多聞小近くにある省庁官舎に住んでいたと告げると、よくご存じで、「ああ!」とすぐに反応してくれました。
仲良く遊んだそこの官舎の子どもたち。
近所には、銀行の借り上げ社宅だった一軒家に住んでいて、入学前から「小さな恋人」だったY子ちゃんや、同級生に先生方。そして帰宅すると早速習ったばかりの唱歌を歌い、私がまだ知らない多聞小学校がどんなに楽しいところかを教えてくれた、今は亡き二つ歳上の姉・・・私は、実り多い幼少年期をこの地で育ててくれた天国の両親と姉と二人の叔母に、深く感謝しながら再び眠りにつきました。
ボク、うちの代表で行ってきたよ────。


(後記)
私は昭和36年度(昭和37年3月)卒業ですが、お会いしたみなさんにはうっかり36年3月卒ですとお伝えしていたようで、訂正させていただきます。

あの日あの頃を思い出して加筆修正をしながら1週間、さらにプラス〇カ月・・・。

ちょうど1年前の11月のこと、早稲田大学で「エンパクこども映画教室2015」が開催され、わが「3つのオレンジへの恋」は、“オレンジチーム”の小学生4人と心の通い合った交流ができました。いまでは、子どもたちの登場は1年後の多聞小を暗示する、感動的な「プロローグ」であったのだと思わずにはいられません。

落成式典の配布物のなかには、「富士の学び舎(グループ6校)」のパンフレットが入っていました。「グループ」は、多聞・代田・代沢・池の上と花見堂の小学校及び富士中学校とで形成されていますが、あのときの「映画祭」“オレンジチーム”のメンバーに花見堂小の女の子がいて,、「ああ!」と、多聞小の「存在」を知っていた理由があらためてわかった次第です。


なお、このブログ2016/2/19~3/01「小学校卒業記念文集から(その1~5)」についてもご覧ください。半世紀以上前の、多聞小の先生や生徒の思い出がいっぱいです。



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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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