2017/04/20(木)17:51
ペギー葉山さんの訃報がつたえられました。
昨秋、中野サンプラザで行われた恒例の「歌謡祭」で、ペギーさんは「学生時代」を歌いましたが、まだまだお元気で、つい最近までテレビやラジオにも出演されていました。

私が67歳になった現在にいたるまで、子供だったころから、ペギー葉山さんはずっと第一線で歌ってこられた、華のある「素敵なお姉さん」でした。

どことなく欧米を感じさせる上品な風貌に、少し「バタ臭い」”ペギー“というお名前がピッタリ馴染んでいました。
つい先頃も、爆笑問題のラジオ番組に出演して名前の由来を語られ、初めて芸名の「わけ」がわかりました。

混線した電話で話した外人の男性が、「君の声(話す様子)は”ペギー“だ」と言ったことからだとか。運命の不思議です。「葉山」はイメージのよい御用邸から・・・。
まだ有名でなかった頃、うろ覚えの司会者は「葉山」が出てこず、「ペギー横須賀」とか「横浜」だとか言われたと笑いながらはなされていました。

「もしも~し」
「もしもし?あれ!失礼ですがどなたですか?」
たしかに、突然電話が混線して知らない人とつながった時代がありました。

ドーナツが大変なごちそうだった時代から生まれたという、ペギーさんによる「ドレミの歌」名作詞のことなども・・・。
ミュージカル「サウンド オブ ミュージック」の国内公演では、「大佐」役は、私の母も入っていた、世田谷の多聞小学校のママさんコーラスを指導していた歌手の坂本博士さん。若き日のペギーさんは、マリア役をつとめられたのではなかったろうか。


私は、小学校の3~4年ころに流行った「南国土佐を後にして」に続き、思春期にはペギーさんの名曲「学生時代」「ラ・ノビア」と一緒に育ったようなものでした。「学生時代」は最も好きな曲で、女学生だった家内にレコードをプレゼントしたこともありました。日本近代音楽史に輝く「唱歌」の趣きが漂う、永遠の名曲です。

私がまだ20代だったと思うが、証券会社に勤めておられた女性から、京急生麦駅にあるその会社の施設で行われたペギーさんクリスマスコンサートにお誘いを受け、ワンマンショーを楽しませていただいたことも・・・歌うのがとても難しいと言っていた、宮城県の民謡「さんさ時雨」を取り入れた新曲も披露されました。あのときのペギーさんとともに彼女の面影も甦ってきます。

昨年の中野サンプラザでペギーさんが歌った「学生時代」は録画できたので、これからもそのときの様子を目にすることができるのは幸いでした。


テレビやラジオからも伝わってきましたが、ペギーさんは本当に性格のよい方だったそうです。長い歌手生命に驚きつつ、いつまでも歌っていてほしい歌手でした(実際にやってくれたのです)。


━━小学校三年の夏休み、上野駅から蒸気機関車が牽引する夜行寝台列車に乗って、私は初めて、両親の生まれ育った秋田県能代市を訪れました。結婚前に母も暮らしていた実家には、もう腰が曲がってはいたが、いつもきちんと正座していた母のお母さんと、母の姉夫婦と3人の従兄とがいました。

そこから少し足を伸ばせば、唱歌「浜辺の歌」が誕生した海岸があり、防風林の広大な松林では蟻地獄を初めて目にし、トンボが群舞した池など、自然に囲まれていました。
一面の野菜畑で、もぎ取って食べたトマトのみずみずしさ、東京では見たことがなかった「赤ぼうず」という名のキノコや、今ではすっかり有名になった高級食材「ジュンサイ」入りの、赤みそを使った味噌汁の美味しかったこと。「きりたんぽ鍋」や「だまこもち」に名物の「東雲羊羹」。

当時、東京湾の海水浴場の海水は茶色でしたが、みちのく五能線・岩舘海岸の海水は清らかでした。それまで「汽車」とは「列車」だと思っていましたが、五能線各駅の汽車は機関車に車両が二つしか連結されていないので、すぐに視界から消えてゆきました。

米代川の花火大会、哀調を帯びた笛の音が忘れられない「能代の七夕」は、青森の「ねぶた」より知名度は低いが武者絵の豪華な山車が繰り出されます・・・・日々の両親のものとはまた違う、伯母さんや伯父さんの愛情に包まれた、倖せな夏休みでした。

「南国土佐を後にして」が流行った正月のこと。
九戸が並ぶ官舎の一軒で、恒例の「お父さんたちの新年会」が行われました。
姉と二人でのぞきにいったとき、父は、余興にちょうどこの曲を披露していたのです。人前で父が歌う姿を見るのが珍しくもあり、何だか照れくさいようでもありで、姉と二人で顔を見合わせながら家に帰ると母に報告しました。父はペギーさんのファンでしたが、戦時には軍属としてインドネシアに赴任していたので、「南方・南国」という響きにも特別な思いがあったのかもしれません。

私はこの曲も好きでしたが、中一のときに従兄からもらった洋盤と国内盤、二つの「ラ・ノビア」のレコード・・・歌いながら本当に泣いているのではと思う、イタリアのトニー・ダララの歌唱は衝撃的でしたが、ペギーさんの方はあくまでも品がよいのです。たしかペギーさんは、「ラ・ノビア~泣きぬれて」が一番好きな曲だと言っていたように思います。

♪ 白く輝く花嫁衣装に 
 心を隠した美しいその姿 
 その目にあふれる ひとしずくの涙

まるで物語のようなペギーさんのレコードは繰り返し聴いたし、テレビでもよく歌われていました。

 ♪祭壇の前に立ち 
 いつわりの愛を誓い

 十字架に口づけして 
 神の許しを願った 「ラ・ノビア」

♪ローソクの灯に輝く 十字架をみつめて 
  白い指を組みながら うつむいていた友の

「学生時代」の後に訪れた悲劇のように思えました。


「人間はこのままいつまでも歳をとらなければいいね」
私はあまり幸せに感じたので、夏休みのある夜、能代の伯母に言いました。
大好きなみんなが、いつまでもこのままでいてほしい・・・。


しかし、秋田県岩舘の海を「のし」泳法で泳ぎ、休養もそこそこにわずか一泊で、あわただしく帰京した父も、二人とも小学校の先生だった能代の伯母さん夫婦も、父の妹でにぎやかだった三人の叔母も、ケンカもよくしたが幼い私のよい先輩だった2歳上の姉も、そしてあくまでも慎ましく優しかった母の姿も今はない。


「ラジオ深夜便」の曲で、ペギーさんの遺作となった「おもいでの岬」を夜一人で聞いていると、三人の孫に恵まれたとはいえ、天涯孤独の身のように寂しくなり、いたたまれない思いがしました。


♪ いつまでも変わらずにと 願った幸せ
♪ 胸の中に秘めていた 恋への憧れは

「学生時代」の曲そのままに━━。

2017/04/12(水)17:23
(1) 「一回限りのシンフォニー」
遠い彼方になってしまった世田谷の多聞小学校と富士中学校の時代をよく思い出します。
もう半世紀以上も前のことなのに・・・。
去年の秋、一般OBとしてただ一人、多聞小の新校舎落成式典に出席できたのは「天に思いが通じた」からだと思っています。その年の夏に、懐かしさにひかれて小学校に立ち寄ったのがきっかけでした。
(16/11/29のブログ「声がひきつる!?多聞小学校校歌」に、このときのことを)。

区立の富士中学校に進学した昭和37年は、2年後に東京オリンピックを控え、幼い日から見慣れていた東京の姿は大きく変わり始めていました。私たちは戦後ベビーブームと言われた世代で、中でも昭和24年生まれは人口が一番多く、何かにつけニュースで取り上げられたものでした。そんな頃の多聞に続く富士中の時代・・・それは早春の歓びと憂愁のメロディーからなる「 こころのシンフォニー」でした。

音楽の演奏会、たとえばオーケストラ演奏に加え、大掛かりな舞台装置と独唱者や合唱団が登場する、豪華なオペラの上演は、「録音・録画」という例外を除けば、夢のように消えてしまう、そのとき限りの何とも贅沢な芸術です。
いま思えば、小学校中学年のころから中学時代にかけて、ほぼ六年間にわたって“四つの憧れ”が交錯した「シンフォニー」も、あのとき人生でただ一度だけ「演奏」されたのです。


(2) 時空の再現力
小学校や中学校の卒業記念・・・すがたかたちをとどめる写真のアルバムは、厚い表紙で装丁もしっかりしているので残しやすいが、「紙製」の文集の方は、振り返ることもなく大方の卒業生が散逸させてしまったのではないでしょうか。

文章を書くことが好きだった私は、小学校と中学校そして高校でも、卒業記念文集の編集委員に志願しました。中学では1年目が終わると組替えがあるので、このクラスのことをとどめておきたくて、みずから「”卒クラス”文集」作成を提案しました。

いま、中学1年時のこの文集に目を通してみると、ひとりひとりの飾り気のない一文に、それぞれの個性や思いがにじみ出ており、往時の「再現力」はおどろくばかりのものでした。それは「写真」とは異なるかたちのもので、書かれている素朴なみんなの文章を読むたびに、「忘れていたはずの 忘れ得ぬ想い」が、やさしく蘇ってってくるのです。あのころは当たり前のようにすぐそこにあったはずものでした・・・。


(3) 提案
小学校では大小数回のクラス替えがあり、そのたびに先生や友人との出会いと別れを体験しましたが、中学でも2年進級時に、さっそくクラス替えがあることが分かっていました。

あるときから小学校で見かけるようになった一人の女子に、富士中新入学のクラスで同級になりました・・・しかし思わぬ「再開」と「転校生」の出現など、「四つの憧れ」が入り組みながら進行していった「物語」の筋書きについて、このときまだ知る由もありません。

せっかく同じクラスになったばかりなのに、すぐ「別離」があるかもしれない・・・記憶に新しい小学校の卒業文集を思い浮かべながら、私はこのクラスの記念文集を作ろうと提案しました。多くの労力を要する”卒組・卒クラス”の記念文集の作成には、まず中心となって動く人物が必要であり、同級生の理解・サポートも必要です。ほかのクラスは絶対できないだろうと自負していました。

間もなく冬休みを迎える、中学一年二学期の半ばのことだったと思います。幸い提案は支持され、言い出した手前、私は「責任者」の立場にならざるを得ません。


(4) 若い魂の作業
小学校の卒業文集作成では、各クラスから数人ずつ代表が集まるので心強く、印刷・製本・装丁も外部に発注し、先生方もかかわっての「公式行事」なのでスケジュールに沿ってこなしていけばよいという安心感がありました。

活動はいつからはじめようか?今度は私がみんなにはかってきめなければならないのです・・・クラスの「解散」までに間に合わなかったときの恐怖感が遠くの方に見え隠れしました。

まずは企画を練って、担任の小野先生をはじめ、クラスのみんなに原稿を書いてもらわないといけません。中学の一年目はすぐに三学期がやってくるし、学年末試験を挟むので、活動の時間は限られていました。
祈るような思いで編集委員のメンバーを募ったとき、私の懸念を打ち消すように、「彼女」が真っ先に手を挙げてくれたときに抱いた安堵感と喜びは、今振り返ってみても、人生でそうそう味わえるものではありませんでした。

文集のタイトルは私がつけさせていただくことになり、「人生の夜明け」を思って・・・本当に何と瑞々しい時期であったことか・・・シンプルに『暁』と名付けました。編集委員が手分けをして自由なアイディアで表紙を作り、みんなの文章が印刷された藁半紙を製本・装丁をしました。編集委員の人数分と、おそらく協力者の分の、顔もすがたも違う文集が出来上がることになりました。

放課後、「委員」みんなで、通称ガリ版と言っていたヤスリのついた板の上にロウ原紙を敷き、鉄筆でガリガリと原稿を書き写して、インクで手を青くしながら謄写版で藁半紙にプリントした、まさに「魂の作業」でした。「協力者」も応援してくれた記憶も残っています。
インクの匂いも真新しい藁半紙を一冊ずつまとめ、閉じ穴を二つあけ、委員それぞれが作成した表紙をつけて、綴じ紐でくくりました。

たった一冊、今、手元にあるのは私自身が作成したもので、実に貧弱な「すがた」をしています。
表紙の「暁」の文字は、毛筆で書いてありました。
小学校のときに通っていた習字塾と、中学では、しゃべりが漫談のように面白かった布川先生の「書道」の授業で教わったはずの、今はすっかり忘れてしまっている「筆使い」で精一杯書いたのです。そして夜明けの海が色鉛筆でシンプルに描かれていました━━国家公務員の父が仙台に単身赴任中のとき、夏休みに訪れた「松島」をイメージしたものでした。


(5)友情の文集
70歳が間近かになったいま、粗末に綴じただけの、ふにゃふにゃと頼りないこの文集を、久々に手に取り目を通したとき、これほど多くの思いが湧き上がってくるとは、正直思いませんでした。

「巻末」の「編集委員」の名前を見て、いきなり感慨を新たにしました。
クラスが「解散」することを惜しみ、このクラスが好きだった私が、クラスのことを、あのひとを、記念に残したくて作った文集。「編集委員」は私以外に男子が3名、女子2名の計5名、そして「協力者」という立場でならばと、男子2・女子3の計5名が名乗り出てくれました。クラス全55名の内のうれしい10名でした。

この委員や協力者男女一人ひとりの名前を見た瞬間、私は胸が熱くなりました。たった1年間ではあったが、それぞれに思いを共有したクラスへの愛と仲間との友情の証でした。私には死語となった、とうに色あせてしまっている「友情」という言葉が、このとき何の抵抗もなく極めて自然に湧いてきました。

以前、「ラジオ深夜便」を聴いていたときのエピソードを思い出しました。
陽に当たると生命の危険にさらされてしまう、難病の医大生(当時)が出演していました。彼は紫外線を避けるため、全身「重装備」をしなければならず、周りから奇異な目で見られることが多く、いじめを受けないようにしなければなりませんでした。彼の小学校では、担任の先生の指導が行き届き、同級生たちが温かく守っていました。

それぞれ進学先は別になったが、彼が中学に入学する朝、正門前に小学校の同級生たちが勢ぞろいして彼を迎えたのです。代表の一人は、彼の中学校の朝礼の台上に立ち、彼の病気のことを語り、よろしくお願いしますと、校長先生以下全校生徒の前で立派に挨拶まで行いました。これらの行動はすべて彼には伏せたまま計画されていたそうです。私は、深夜ラジオで聴いていて、若い彼らの行為に熱い涙を流していました。


(6)委員たちの思い出
文集の編集・作成という無償の奉仕作業を、自発的に手伝ってくれるという、このときのクラスのみんなの行動は、私には十分すぎる友情の証しでした。

編集委員になってくれた宇津見くん(仮名、以下同)は、小学校何年のときだったろうか、転校してくるとすぐに私と仲良くなり、放課後はよく彼の家で遊んだものでした。ドライブで房総海岸の潮干狩りや蔵前国技館での初代若乃花の引退相撲に誘ってくれ、彼の家にはずいぶんお世話になりました。病のため早くに亡くなられたお母さんから、これからも、いさみ(仮名)のことをよろしくと言われたとき、子供心ながらにその思いを受け止めました。

それでも小学校の高学年になると、仲違いしたわけではないのに、それぞれが新しい友人と付き合うようになってゆきました。中学で再び顔を合わせたこのクラスには、私と彼の意中のひとがいました。

一年生の冬の一日、彼の家にその四人で集まろうと計画しました。
本当に来てくれるだろうか?誘ったときには、二人でドキドキしたものでした。
『いつでも夢を』や和・洋のドーナツ盤に耳を傾けながら談笑したことがよい思い出になっています。純情で清らかな集いでした━━その彼が立候補してくれていたことが意外に思えるほど、歳月が経過していました。

その宇津木君から、「幸福の手紙」(別名「不幸の手紙」)という、当時社会問題になっていiた「連続メール」のようなものが突然届いたのは高校時代だったろうか。24時間以内に同じ内容の手紙を○通、知り合いに出さなければ、死や不幸が訪れるというものだったが、放っておいた。彼に連絡をとることはなかったが、どんな思いで書いたのだろうと思った記憶がある。

明るくひょうきんで憎めない宮中くんとは、組替え後もいっしょでした。2年の新しいクラスでは、彼と同じ姓の女生徒と一緒になったのですが、その女子にもまた、思わぬかたちで”憧れの主題”が流れていたのでした。

同じく編集委員になってくれた田山くんは私と同じ美術部の所属で、小柄だったが腹が座っていて、しっかりと自分の意見を言う少年でした。


女子で、編集委員に立候補してくれた杉原さんが、「シンフォニー」の”第一主題“でした。
彼女はあるときから小学校の廊下でよく見かけるようになりました。小学校の卒業文集によれば、4年の時に転校してきたそうです。
「そうじゃないのよ!!」
廊下ですれ違うときには、同級の女子と議論でもしているような、彼女の大きな声が聞こえてきました。

小学校の文集には、転校早々その子とよくケンカや言い合いをしたが、すぐ仲が良くなったと「経緯」が書かれてあり、その辺の「事情」が後で呑み込めたのでした。
杉原さんが「言い合い」をした女子は私が小一のときの同級生で、内気だった私よりも強かったが、転校早々で、負けずに張り合ったのだから大したものです。

杉原さんは帰国子女でした。
クラス担任の小野先生は英語の教師でしたが、杉原さんの「日本人離れした」英語の発音は先生よりも上手で、彼女がリーダーの教科書を読むとき、ちょっと鼻にかかったような可愛い声が一層魅力をましました。指定された箇所を超えてずっと続けて欲しいとクラス中が思ったことでしょう。

第二学期だったと思うが、私の密かな念願どおり、杉原さんと男女ペアの委員として活動してから、ようやく言葉を交わすようになりました。それからは毎日顔を合わすのが楽しみでしたが、迫ってくるクラス替えのことを考えるとすぐに気が重くなるのでした。一日ずつ確実に減ってゆく、二つの学期しか残されていないのです。

━━いいよいよ学年末の試験が終わり、同級生に原稿提出のハッパをかけつつ、本格的活動に入ったが追い付かず、連日放課後遅くまで残って、最後は日曜日にも出てきてがんばりました。委員や協力者が心を一つにし、そこに杉原さんがいてくれる・・・別れの予感をはらみながら、寂しくも幸せな時間でした。


やはり、女子の編集委員を務めてくれた日野さんは美術部で一緒でした。「天平美人」のようにふくよかな趣きがあって、好感度の高いひとでした。恥じらうような目元が、少し色っぽかったと思うのは私だけだったろうか。

中一の男女の美術部員たちだけで上野の美術展に行ったときは、「グループ交際」のような気がして胸がときめきました。小学校では、私のクラスだけだったのかもしれませんが、高学年のときには男子は男子、女子は女子のみの交友関係になっていたので、中学で、いとも簡単に「壁」がなくなったことに、軽い衝撃を感じました。

私に賛同して協力を惜しまなかった仲間たちには、今も感謝の気持ちでいっぱいです。


(7)「協力者」にもあらためて感激
伴田君は小学校低学年時に同級で、一緒に遊んだ時期もありました。後に早稲田の法学部でも同期になりました。お互いに一浪でした。大学ではクラスはちがったが、週に一回共通の授業で一緒になると、「ヨウ!」「ヤー!」と挨拶をかわすのですが、なぜだか照れくさいものでした。最後はお互いに就職先を聞いたのだったが、もっと話して、一緒にお酒でも飲めばよかった・・・。

もう一人の「協力者」笹野くんは、やはり小学校低学年時の同級生。
今でも覚えているのは、家族全員が持ち回って「家族新聞」を作っていたこと(「家族会議」の記憶違いだったかもしれません)。
お母さんは教育熱心で活発な方で、教室にもよく顔を出されていました。ユーモアたっぷりに、人前での「挨拶」の仕方を「前略・中略・後略」だけでまとめてしまう妙技を披露し、笑わせてくれました。
コナン少年のように、低学年のころから眼鏡をかけていた笹野くんの口癖は、「別に・・・」でしたが、私にはそれがかなり大人びたセリフに聞こえたものでした。

小学校からの仲間である、宇津木君も伴田君も笹野君も、久々に文集に目を通すまで、編集に関わってくれた記憶がありませんでした。1年のときに同じクラスであったことすら忘れていたのです。それだけに、中学で初めて一緒になった田山君も女子の日野さん、そして次に述べさせていただいた「協力者」に名を連ねて手伝ってくれた、みんなの純粋な心情に、改めて新鮮な感動を覚えるのです。


女子の「協力者」は、私とそれほど関わりがなかったと思うので、いっそう感謝の思いでいっぱいです。

三都さんは、私の大学時代だったでしょうか、偶々テレビ中継を見ていた「ミス コンテスト」に出場していたのです。ステージ上で司会役とのインタビューに応える様子も流されましたが、残念ながら最終選考には残りませんでした。そういえば少しハーフっぽい顔立ちだったなあと思い出を辿りました。ワンピースの水着姿で登場した審査は見ている方が照れくさかった・・・。

文集に書かれた「一言」によれば、運動が得意だった(そうだったんだ!)女子の渡瀬さんは、クラスで席が近くだったときもあったが、素朴で人懐こいひとで、彼女も協力してくれていたことをあらためて嬉しく思ったものでした。小学校卒業時を思うと、あらためてこの渡瀬さんや日野さん、そして中野さんや杉原さんらのことをとてもうれしく思うのです。



スマートでおっとり、丸顔が愛らしかった中野さんが宇津木くんの意中のひと。
杉原さんと仲がよかったことから手伝ってくれたのだろうと思いました。杉原さんも彼女とは「言い合い」をすることはありませんでした。
結局、中野さんと宇津木くんは卒業まで同じクラスだったが、その後の「進展」についてはついに確認できぬままとなってしまった。もしハッピーエンドだったら、チョッピリ羨ましいが、心から祝福してあげたい。


(8)面はゆい「編集後期」
かなり力みのある、若き日の自分ですが、率直な思いで書いたものでした。

━━この文集ができた日、ボク達編集委員はどんなに待ちこがれたろう。こう言っても決して過言ではない。
委員結成以来ただひとすじに、モクモクと進んできた。時には思わぬ(困)難があったが、それを乗りこえてここまで来たのである。地味だが「忍耐」のある活動。文集完成の日の喜びがボク達を支えてきたのだ。
この文集は立派ではないが、いつまでも中学時代最初のものとしていつまでも取っておいてください。
最後に編集委員以外に協力してくださった小野先生をはじめとする方々に深く感謝いたします(以上、原文のママ)━━


このときの一年が「わが心の中学時代」の”第一楽章あるいは第一幕“でした。
残念に思うのは、編集委員と協力者の氏名が印刷でなく、私の手書きになっていたことで、なぜそうなったのかさすがに覚えていません。若い汗と涙の「結晶」なのに、ほかの委員・協力者たちは友情の証であるメンバーたちの名を、それぞれ記してくれただろうか。汗水を流した作成者氏名がないものはなかったか?もう確かめるすべはありません。

クラス全員の55冊分と同学年の先生方にお配りした「文集」は、私が所持する分以外、唯一、編集委員だった杉本さんが所持してくれていると信じています。

なぜかというと、「彼女が作った」文集はキッチリと和綴じ製本されていて、品質の良い紙を使用した表紙には、達筆な毛筆で『暁』と書かれていて、天地(?)見開き側(?)もきれいに裁断されており、書店に並んでいても不思議ではありませんでした。おそらくは、彼女の大切な「お母さまの作品」であろうと思ったからです。
私は、彼女との記念になるその一冊の方を手元に残したいという誘惑と必死で闘い・・・立派なものはほかの人に渡してあげよう・・・今も手元に置いてある稚拙な自分の「作品」を手にしたのでした。


2017/03/23(木)18:25
〈第一部 ありがとう みなさん〉

今年の卒業式では、「3つのオレンジへの恋」に寄り添ってくれた三人の女子学生と、二人の男子学生が巣立ってゆきます。
4年間バイトで働いてくれた、三重県出身、文学部の大山さんはこのお店のあるマンションに住み、いつもおっとりとやさしい笑顔をみせてくれました。当店歴代のバイトはみんな性格ともども優秀な子たちですので、大山さんも立派な国家公務員になられること間違いなしです。

教職を目指す漕艇部の波多野さんと応援部吹奏楽団の片山さんは大の仲良し同士。
教育学部藤井教授の教職課程コースの授業の中で、二人を含む男女9名からなるグループが「3つのオレンジへの恋」の私達夫婦や店の様子を再現し、抱腹の名演技を披露してくれたのは、まだ二人が1年生のときでした。

吹奏楽団で活躍した童顔の片山さんは、現在は都立の中高一貫校に姿を変えましたが、前身は私の出身高校であり、いまも校歌を同じくする「後輩」でした。

「九州”女児”」で漕艇部の波多野さんはいつも元気いっぱい。寝坊助の私がとてもマネのできない早朝練習をこなしてから、授業に駆けつけるのですから、それだけで表彰ものです。

やはり1年のときから顔を見せてくれていた、小陳(こぢん)という、珍しいお名前をもつ文学部の男子は抑制のきいた人柄で、ボランティア活動をしていると聞き感心していましたが、この春から都庁へ。

社会科学部の井口君は出版会社━━大学では”5年間”陶芸部に所属し、キャンパス内にあるという釜で創作に取り組んでは、出来上がった「作品」を店内で販売していました。時代が違うのか、たまたまなのか、この2人の男子は、私の時代の才気走った同級生と違って物静かなナイスガイでした。

最後に、早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団の安井さん(理工)と島本さん(法)、いろいろお世話になりました。卒団の「第九」・・・素晴らしい演奏会をありがとうございました。
そしてこの度目出度く定期演奏会が200回目を迎えた、早稲田大学交響楽団のみなさまによる白熱の演奏に、惜しみない拍手と喝さいを送らせて頂きます。



〈第二部 「わたし美術館」の誕生〉

この五人だけでも忘れられない年でしたが、さらにことしは「飛び入り」で二人の「女子絵本作家」が加わったのです。
国際教養学部の高橋さんと、教育学部の佐宗(さそう)さんです。

平山郁夫記念センターのボランティアで、ともにラオスで活動。創作に至る過程が好きだという二人が意気投合して、去年の10月に絵本を作ろうと思い立ったそうです。2月8日に来店したとき、テーブルに原画を広げて案を練っていた二人に、家内が声をかけたことがきっかけでした。そして一冊だけ作るので、出来上がったら「3つのオレンジへの恋」に置いてほしいと。

卒業式を控えた3月22日、二人がやってきて「わたし美術館」というタイトルの絵本を披露してくれました。
店内カウンター席に置いてありますので、目を通していただければ、また、ひとことコメントを記入していただければ幸いです。

二人はこの「作品」を、あるコンクールに応募したが落選したとのこと。実は私も2年前にさる文学賞に応募して見事にはねられたと、図らずも共通の体験を告白することに。高橋さんにお聞きしたところ、都内で近くに住んでいた時期があり、「花火大会」や「映画館」のことで一気に話が弾んだものです。

進学県の愛知出身の佐宗さんは大学院に進み、高橋さんはベネッセ社で、それぞれ夢を追いかけます・・・ベネッセ社が何年か前に「早稲田大学本」を出版した際、早稲田のお店として「3つのオレンジへの恋」を掲載していただいた「恩義」がありました。

彗星のように現れた佐宗さん・高橋さんの二人が、あっという間にテキパキ手際よく作り上げていった写真入りの「コーナー」をこのあとに特別に設けましたので、どうぞご覧ください。


お待たせいたしました。いよいよお二人による「わたし美術館」の開館です。
「3つのオレンジへの恋」・・・これほどふさわしい「美術館」はほかにありません。


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早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の中の
「ラオス学校建設教育支援プロジェクト〜スーン〜」というボランティア活動を一緒にしていました(*^◯^*)
ラオスの小学生に向けて授業を作成し、2週間ほど現地に行って授業を行うという活動です。

当時から、2人とも絵を描いたり工作をすることが大好きでした ♪♪
大学生活が残り少なくなり、自分たちがこれまで考えたり感じたりしてきたことを何か形にしたいねということで、
絵本として形に残すことにしました。
絵本作りに関しては素人ながらも、ストーリーから絵まで、自分たちなりのこだわりを持ちながら取り組み、
納得のいく絵本を作ることができました!

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開発途上国で様々な形で貧困問題を見ていく中で、
自分たち先進国の人が思いも知らぬところでそれらの問題に関わってることを今回絵本で伝えたいと思いました。
他人事だと思っている社会問題も自分ごとにしていくことが大事だと思います。
みなさんへのメッセージでもありながらも、私たち2人も、日々忘れないでいたいという想いを込めて決めた内容です ^o^

「3つのオレンジへの恋」のオムライスとお店の雰囲気が私たちは大好きです!
ぜひ、お店にお越しいただいた際に、わたしたちの絵本も読んでみてください(*^^*)

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【プロフィール】
◎高橋瑞季 (たかはし みずき)
頌栄女子学院高等学校出身
早稲田大学 国際教養学部 2017年卒業
幼い時にシンガポールに住んでいて、東南アジアが大好きです!
2017年4月からは教育業界で働きます。
世界中の子ども達の笑顔を作りたいです。


◎佐宗若奈(さそう わかな)
愛知県立岡崎高等学校出身
早稲田大学教育学部理学科生物学専修 2017年卒
これからは感染症の研究をするために大学院に進学します。
魅力いっぱいの東南アジアをはじめ、色んな国々の人や文化と関わっていく人生を送りたいです!

2017/03/06(月)14:42
1978年4月4日、後楽園球場で行われた「キャンディーズ」の解散コンサート、その映像が3日後の週末に放送されました。
あいにくなことに、その日は、私が企画した、課内有志のテニス旅行にあたってしまい、宿泊先はテレビもない運動部の合宿所のようなところ、その放送は誰も見ることができませんでした。

商社に入社早々、快く参加してくれた新人女子Sさんから、「見たかったのに!」と可愛い顔で恨まれたときには、また再放送するからと、当てのない慰めの言葉をかけました・・・私もまだ入社6年目の若さでした。

良い人はどうして早く亡くなってしまうのだろう。
むかしから、社内の訃報を目にするたびに感じていました。

女子短大を卒業したSさんは朗らかで、本当に誰からも愛されました。
少しぽっちゃりで、あのころのスーちゃん、田中好子さんのようだったかもしれません。彼女と同期の男子社員は親しみを込めて「Sブー」と呼びましたが、彼女はまったく嫌がる風はありませんでした。整った顔立ちで、甘いマスクながら目元はキリッとしていて、人がらの良さはこぼれんばかりでした。

課の新人歓迎会が開かれたとき、Sさんが自己紹介のなかで剣道をたしなんでいたと言うと、課員の中から、誰にでもいいから切る真似をしてみせてという声が上がった。
愛嬌物のSさんは臆せず期待に応え、何かを手に取ると、さて誰に切りかかろうかと見渡しました。彼女の表情から、イヤだと思う人物には向かわないと思っていたところ、私と目が合うと、微笑みながら私の前に進み出たのです。そして「エイ!」と優しく切りつけられて、私はやられてしまいました。「美人剣士」の登場に座は盛り上がり、こうして彼女は見事にデビューを飾ったのでした。


Sさんの大らかで裏表のない性格は、課の内外男女を問わず人気者でしたが、彼女と、同期の「なかよし三人娘」は、当時、女子社員の「難しさ」に閉口していた私を、その明るさと優しさで癒してくれたのです。私の「キャンディーズ」だったといえたかもしれません。
チーム改編が日常だったため、間もなくSさんは私のアシスタントを離れましたが、無邪気で明るいSさんはチーム、課にとって貴重な存在でした。


私がクラシック音楽ファンだと知っていたSさんは、私に長女が生まれたと聞き、可愛らしくて趣味のよい、こども用ベストのお土産と、そしてもう使わないのでと、短大の音楽の授業で・・・先生はたしか村田武雄さんと言っていた・・・使用した楽曲の楽譜・スコアを4~5冊抱えて、一人でやってきてくれました。私の好きな「マイスタジンガー前奏曲」も入っており、何よりの贈り物でしたが、初めて手にした大判のスコアは一冊一冊がズッシリと、見かけよりもはるかに重いので驚きました。

数年前の組織改編で、私とSさんとは所属部門もビルも変わってしまっていたことを思うと、このときの彼女の来訪がどんなに有難く、得難いものだったことか。
私が結婚したときにも、彼女が中心となって有志からのお祝い品を頂いていたのですが、私の方では特別な面倒をみた記憶はないので、重ね重ね彼女の気持ちをとても嬉しく、愛おしく思ったことは言うまでもありません。


あのころ、内部の飲み会や2次会の後で、男子は同じ方向の女子を、タクシーで自宅まで送り届けるという「悪しき慣習」があった(遅くなる前に帰すべきなのです)。
この日、お祝いを持って、たった一人やってきてくれたSさんに食事をしてもらった夕べ、必ずしも遅い時間ではなかったのですが、若いお嬢さんの帰路を思うと偲びなく、私は喜んで送って行きました。地下鉄を乗り継いで片道1時間以上かかった彼女の自宅、玄関先で、ご両親が挨拶されたとき、Sさんの優しさ、人がらのよさが理解できました。


その後Sさんは結婚されと聞きましたが、いつの間にか年賀状のやり取りは途絶えていました。
最近になって、南十年ぶりかであの頃の課で集まろうという話があり、幹事役にSさんのことを尋ねると、10年ほど前に亡くなったと聞いて、驚きと共に大きな喪失感に襲われました。
健康優良児のようにはつらつと、生気に満ちていたSさんでしたのにどうして・・・お子さんは?あのときのご両親は?ご主人の悲しみは如何ばかりであろう。


━━私の予想通り(?)「キャンディーズ 解散コンサート」は、その後何回か再放送され、一番最近ではスーちゃんが惜しまれつつ亡くなったときでした・・・。今度会う機会があれば、罪滅ぼしに「見た?」と訊き、「ちゃんと見ましたよ!よかった!」と、あのときのように可愛く睨んでくれることを期待していました。


2007年5月、テレビ朝日さんの「人生の楽園」に出演させていただいたとき、女性のナレーションは元キャンディーズの伊藤蘭さんでした。番組内で、「ランちゃん」は、西田敏行さんとともに何度もわたしのファーストネームで紹介してくれました。

自分がテレビに出ることは照れくさく、ひとにはあまり見てくれとも言えなかったが、「キャンディーズ」ファンだったSさんには教えてあげたかった。果たして「ランちゃん」が“声で出ている”、10年前の「私の番組」を見ることはできたのだろうか?。今も健在ならば西田さんと「ランちゃん」から頂いたサイン色紙だって見せてあげることが出来たのに・・・天真爛漫なSさんの笑顔、明るい声が、帰ってくることはありません。なんで良い人ばかり・・・。

「キャンディーズ」の涙の解散コンサーが取り上げられるとき、初回放送時に見せてあげられなかったことをいつも思いだし、スーちゃんのように決して長くはなかった人生の中で、Sさんと出会えてよかったと思っています。

Sさんがアシスタントになり誕生日が私と同じだ!と、わかったときにはお互いに”何か“を感じ、話すときにはいつも笑顔でうれしそうだった・・・あの日、けっこうな重さになった楽譜を抱えてやってきてくれてありがとうね。


(追記 4月7日)

Sさんは入社するとさっそく会社の剣道部に入りました。

「(私と)同期の男子社員Kさんが、(私のことを)とてもいいやつだと言っていましたよ」
ある日、Sさんがうれしそうに私に「報告」してくれたことがありました。
「とても同期に見えないだろ?!」
「初めて得意先に行くと、一緒に行った上司より、あいつの方に先にお茶がでるんだから!」
私の「冗談解説」を聞いてSさんは吹き出しました。

入社時から頭の毛が薄く、同期には見えなかった彼、K君も剣道部だったのです。、顔を見れば「ヨー!」というあいだがらで、お互いに好感を持っていましたが、Sさんから言われたとき、彼女自身がそう言ってくれたようで、とても嬉しく思ったものです。

退職後毎月送られてくる「OB通信」の今月の死亡欄に、このK君の名前が掲載されていました。
またしてもいいやつが。
もう会わなくても良い人は多いが、彼とはまた会いたかった。
Sさんと三人で楽しい会を開きたかった・・・。
彼の真直ぐな笑顔が好きだった・・・。

2017/02/26(日)18:41
大谷康子さんの興奮冷めやらぬ中、ブルックナー「第7番」の美しい原始霧がかかってゆく。

早稲田の4年のときだったろうか、私は初めてブルックナーの世界に接しました。

モーツアルトやベートーヴェン、ショパンなど、音楽の代名詞のようになっている作曲家と比べると、アントン・ブルックナーは、名前からしていかめしく、近づきたいと思う名前ではありませんでした。しかし、LPレコードボックスにかけられたオビの、「後期ロマン派」という”文字“に惹かれ、大学の生協で買ったのが、マーラーの第1番「巨人」(バーンスタイン、NYフィル)と、ブルックナーの第4番「ロマンティック」の二枚組でした。

「ロマンティック」はブルーノ・ワルター指揮のコロンビア響で、飽きの来ない、聴けば聞くほどに好きな曲・作曲家となり、以来、ふと気が付くと、「ロマンティック」「5番」「7番」「8番など」の開始部分、アダージョやスケルツオ、フィナーレのメロディーが浮かんでくるのです。


以前、大谷康子さんが、オーケストラのコンサートマスターとしてよく出演されていた「題名のない音楽会」で、黛敏郎さんの追悼番組となったでしょうか、最晩年の黛さんが万感の思いで訪れたのが、ブルックナー所縁の「聖フローリアン教会」でした。

「ニーベルングの指環」初演に立ち会ったブルックナーが、ワーグナーの死を予感しながら作曲した交響曲第7番。

ブルックナーの「7番」は朝比奈隆さんの指揮で2回聴き、うち1回は「東京カテドラル教会ホール」で大いに期待しましたが、構造上からか反響音が気になって集中できませんでした。
一方、朝比奈さんが、北ドイツ放送交響楽団の来日公演で「ロマンティック」を振ったときには、会場のサントリーホールが、日本のオケでは聴いたことのない、くすんだ、ゴツゴツしてどっしりとした音で満たされた。野太いホルンが響きわたり、金管楽器が、オーケストラ全体が咆哮する。木管楽器が寂しげなメロディーを奏で、いよいよ「コーダ」が迫って来ると、終わらないでと願ったものでした。

朝比奈さんのブルックナー演奏を高く評価していた音楽評論家で、合唱指揮者の宇野功芳さん自ら指揮する 「ロマンティック」も、「池袋」で聴いたことがあります。「東京文化会館」での朝比奈さん・大フィルによるもう一つの「7番」と「8番」の名演奏は覚えているが、最高峰ともいわれる「5番」も朝比奈さんだったと思うし、未完の「9番」ともども、たいそう感銘を受けたはずなのに、記憶が薄れている自分にガッカリする。

レコードやCDでも数えきれないほど聴いてきたブルックナーの交響曲は、ワーグナーの名がついた「3番」以後、どれも差がつけられないほど好きだが、演奏頻度が少ない「6番」は、FM番組のオープニングに使用されていたフルトヴェングラーのアダージオ演奏を聴いた瞬間に胸を打たれました。

宇野さんは、フルトヴェングラーとカラヤンは(「音楽のつくり方」は正反対ですが)、それぞれブルックナーには向かないといい、私も同感です。情熱的なバーンスタインもブルックナーの世界とはちがうように思います。
しかしフルトヴェングラーと「6番」は相性がよいのか、この「アダージオ」の美しさは別格です。第二次大戦後の混乱に乗じて、ソ連軍に持ち去られていた多くの音源が発見され、蘇ったフルトヴェングラーとベルリンフィルの名演奏の、夢のようなシリーズ番組でした。解説は早稲田出身の評論家黒田恭一さんだったと思いました。

この日、寺岡清隆さん指揮の早稲田大学交響楽団の演奏は、最前列席で聴いていたので、弦楽器パートが、トレモロ、ピチカートの弱音から最強音にいたるまでしっかりと聴くことができました・・・オケのセンターから後方に配置されている管楽器や打楽器群などは、音が頭の上を通って行ったような気がする・・・。かつて「題名のない音楽会」で、黛敏郎さんが、コンサートホールで音響が最上の席はどの位置かというテーマを論じた。説得力のある黛さんのあの語り口がなつかしい。

さて、LPレコード2枚組だった長大なブルックナーの「7番」。しかも、「ワーグナー」の2曲に続き、まったくミスの許されない、大谷さんとの「ヴァイオリン協奏曲」を共演した後に・・・果たしてワセオケに余力が残っているだろうか・・・正直なところ心配だった。

聴くだけの、素人愛好家の私は専門的な論評はできませんが、それにしてもこの日の早稲田大学交響楽団のブルックナーもワーグナーも、そして大谷康子さんとのブルッフ!。
「凄い!」
この日、この言葉を何度口にしたことか。

クラシックの曲、とくに後期ロマン派の大曲は、聴く方だって気力体力が必要ですが、寺岡さんの明確でキビキビとした指揮の下、ワセオケの奏者たちは終始緊張感を失うことなく、実に見事な演奏だったと思います。練達のプロのオーケストラとはひと味もふた味も違うとは思いますが、与える感動は決して負けていません。

朝比奈さんの演奏を聴き終えた後、ほかの演奏会でも、この日ほど興奮し、心を揺さぶられたことがあっただろうか・・・確信がもてなくなりました。寺岡清隆さん・・・早稲田大学から音楽家を輩出する理由がわかったように思いました・・・そういえば朝比奈隆さんもたしか京都大学だった・・・。


(付記)
今回のタイトルは、私が勤めていた総合商社の社長の言葉「熱心なアマチュア(素人)は不熱心なプロ(玄人)にまさる」にヒントをいただいたものです。

日頃、楽器を持って「3つのオレンジへの恋」にやって来る「ワセオケ」や「ワセフィル」のメンバーたち。
ごく普通の早大生のように見えるのに、音大生でもないのに。
なんでこんなに!。

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早稲田大学南門前のオムライス店・3つのオレンジへの恋のオーナーブログです。元商社マン、母校の地で第二の人生をはじめました。

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